ものづくりにおける情熱と冷静のアンビバレンツ 〜HUNTER×HUNTERに学ぶ創作の秘密〜

客観視するためには、距離が必要だ。

空間的にも、時間的にも、精神的にも。

客観視とは他者の視線ということであり、自分の延長とは断絶した先にある存在からの視線ということだ。実はそれこそが、その対象の価値の普遍性の有る無しを査定するための唯一の物差しなのである。なのである、とか、恰好つけて言い切るほどのことでもない、同義反復的な、当たり前と言えば当たり前のことなのだけれど。

全然関係ない他人が見て、それにお金や時間を割り当てたいと思うかどうか。

ものづくりをする人間にとって、客観視ほど嫌なものはない。でもやっぱり、それが必須なのだという矛盾がある。いや、作られたものを味わうという限りにおいては、客観性は求められないのだけれど。経済性のある行為、社会的な活動としてものを作ることは、客観性という試練と無縁ではいられない。

客観性を担保するためには、執著を手放すという心的過程が不可欠だ。しかしそもそも何かを作るという行為とは、それ自体が何かしらの執著やオブセッションの産物なのであり、ここにこそ困難は極まる。そんな簡単に手放せるものなら、最初から何もやらない。

そんなことを考えると、ハンター最終試験の設定は秀逸だったのだな、なんて連想をする。

負けました、なんて言える訳がない、というあのくだりだ。

プロフェッショナルの資質は、手放すな、ということなのかもしれない。手放さないために、勝負のルールを書き換える。手放さない姿勢をメタレベルに棚上げして、愛される。手放すか、さないか、という二択のままではいられない。当たり前だ。じゃあそこで、どんな工夫ができるのか、というその手つき、発想にこそ、プロのプロたる由縁がある。キルアは、ものづくりのスキルはあったが、執著という名の資質が足りなかった。

もちろん、作られたものは、いつかどこかで手を離れる。時の流れがもたらす必然だ。自分という人格自体が、時間の作用によって「いまの自分自身の延長」から断絶された存在になる。ものは、形になった時点で、手を離れる。

プロジェクトマネジメントとは、客観視の過程なのだ、という言い方をしても良いだろう。

情熱と冷静のアンビバレンツ。HUNTER×HUNTERという作品で強い魅力を発散するキャラクターは、みな共通してこの相反する両極を強く把持している。

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