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143.(87/365) 「良いところ」と「良いと感じているところ」

ちょっと今年度に入ってからのnoteを読み返していたら、奈良県の吉野がたびたび出てくることを改めて感じた。
自分でも「吉野多いなあ」とは思ってたけど、やっぱりって感じ。
ぼくは、奈良県の吉野がとっても好きだ。
何というか、もう吉野の放つ雰囲気というか、気配がたまらなく好きなのだ。
吉野って良いところだなあと思う。
で、ふと気づく。
果たして「良いところ」って本当にあるんだろうか、と。
客観的な「良いところ」なんてないんだという当たり前の事実。
誰から見ても「良いところ」がこの世に存在するなら、みんなそこに住みたくなる。
「良い」というのは、客観的な指標でなくて、あくまで「良い」と感じているのは、自分で、自分の価値基準に照らし合わせると、そうなるというだけである。
だから、この世界には「良いところ」があるのではなく、「自分が良いと感じているところ」があるのだ。
「吉野が良いところ」というよりは、「吉野は自分が良いと感じているところ」となる。
これって結構大事で、やっぱり外側に正解を求めがちな世の中だけれど、正解は自分の中にしかなくて、もっと言うと、正解は自分と対象との「あいだ」にしかなくて、だから、人であれ、ものであれ、ことであれ、自分とその対象との間の関係性がどうかによって、価値判断は当然変わってくる。
「住めば都」という言葉があるが、あれは、どんな場所であっても、住んでみると、その場所の良さを「自分が」感じて、都のような住み心地になってくるということだろう。
そして、この「良さ」というのは、全てを言語化できるものではない。
「良さ」には、言葉では捉えきれないものも含まれている。
ひょっとすると、言葉で捉えきれないものの方が多いのかもしれない。
ちょうど宇宙の大部分を構成するのがダークマターといわれているが、その正体が捉えられないのと同じように。
言葉によって、くっきりと輪郭が見えるようになる部分もあるけれど、それはきっと全体のほんの一部分で、言葉では見えないこともたくさんあるということを忘れないようにしたい。
言葉の可能性はまだまだたくさんあるけど、無限ではない。

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