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95.(39/365) 1人読書「間合い 生態学的現象学の探究 第3章」

最近読んでいる本が、「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)である。
難しくて、わからん言葉もいっぱいあるけど、「間」や「あいだ」、「あわい」などの境界がどこからどこなのか、はっきりしないそれらに興味をそそられる自分がいて、思わず購入した。

第1章と第2章は、以前に読んだので、昨日は第3章を読んだ。
こういう難解な本の読書に対して、どう読むのが自分にとって最もしっくりくる実感を持ちながら読めるのかなあと考えていて、先日のジェネ合宿のことを思い出した。
そして、そこで経験したことを使ってみることにした。
百均で売っているミニ情報カードに、自分が引っかかった一文を書き抜いて記録していく。
枚数は、一応無制限だけれど、なんとなくの基準として、1章につき10枚ぐらいで。
あとは、まあ感覚で。
やってみてだが、今のところ、普通に読むよりなんかしっくりきている感がある。
そして、ストレングスファインダーで上位5つの性質に「収集心」のあるぼくにとっては、カードが集まっていくということ、それ自体にものすごくワクワクするのを感じる。
このカードが一冊分集まったとき、それらを眺めて、また新しい何かが生まれるのではないかという予感が、読書の背中を押す。

そんなわけで、昨日の読書で書き抜いた一文たちについて、少し振り返って記録を取っておこうと思う。

それは弛緩した休憩時間ではなく、むしろ極度に張り詰めた充実のことである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.73)

これは、「間」について述べた一文。
「間」って、イコール「何もない」みたいなニュアンスで認識されることがあるけど、きっとそれは間じゃないんだろうな。
学校で合奏する時、最初の一音が始まる前の指揮者が指揮棒を振り下ろす前の静寂とかって、ここでいう「間」に当たる。
そして、この「間」って教室ではどうだろうか。
どんな「間」が発生しているだろうか。
それは本来の「間」として捉えられているだろうか。

意図的に次の動作を抑えて待つのではなく、自ずから動作を起こす機が熟するのを待つ。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.74)

主体性って何なのかって話とも関わってくる記述。
「自分から」っていう時、その自分の意思が作用して動き出すってニュアンスが強い。
でも、そうじゃなくて、全ては「あいだ」で起こっていることと捉えると、その間合いにおいて、互いに影響を受けあう中で、時が来るのを待っていると、「自ずから」動作を起こしたくなる。
これって、前に読んだ「思いがけず利他」の中で書かれていた、インドの与格構文の感覚に近いのかもしれない。
「喜びを感じる」ではなくて、「喜びが自分にとどまっている」って感覚。
自分を器のように捉えて、そこにさまざまなものが入ってきては去っていく。
それは感情だったり、今回の話でいうところの「機」や「動作」だったりする。

観客は、演者のせぬ隙に導かれて、演者の「振り」をして、「舞う」のである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.75)

これは、能における間合いについて記述している部分からの抜粋。
「振る舞い」という言葉の原義がこういうことらしい。
せぬ隙、つまり演者の間に引き込まれて、観客は演者に同化し、その視点からその生を体験する、みたいな感じだろうか。
間の影響を受けるという意味では、自分と自分を取り巻く環境の間に触発されて、なりきって考えてみる、みたいなジェネ本に書かれていた「なりきり俳キング」と近いことなのかな。

この時間的であると同時に空間的でもある間とは、世界を受け止めつつ、自分のリズムを保持することである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.83)

「時間的であると同時に空間的でもある」って、そうだよなあ。
間って時間とも空間とも割り切れないその両方の性質を併せ持っている。
そして、この間の持つ効用として、後半がある。
これって、普段、教員の仕事にぼくが必要としている「余白」とも似ている。
この忙しすぎる日々の中で、自分を保つためには、この間が絶対に必要だと感じる。
昨日は、久々の放課後何もない水曜日で、5時間授業終了からのゆったりとした間があった。
その時間的な間が作りだす心の余裕が、先生たち同士の雰囲気に現れて、職員室全体がゆったりとした雰囲気を醸していた。
そんな雰囲気からの影響を受けた先生たちの発するオーラのようなものが、空間的な間にも現れていた。
そんな感じがした。

リズムはわれわれのあらゆる創造の泉である。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.103)

メキシコの作家で哲学者のオクタビオ・パスの言葉として挙げられていた。
自然のものには、全てリズムがあるという。
暦、政治,道徳、科学技術、芸術などなど。
そのリズムを感じ取ることが、物事の本質を捉えるということなのかもしれない。
リズムを感じ取るためには、間の理解が必要不可欠になる。
全てのものには間がある。
でも、現代では、ありとあらゆるものがそのプロセスを省略して瞬時に結果に結びつく。
それだと、間を感じ取ることがどんどん難しくなるのではないだろうか。
間を感じ取れないと、間を感じ取る場面できっと人はどうすればいいかわからなくなる。
それは、コミュニケーションにも大きな影響を与えるだろう。
スマホ依存なども、画面に張り付きっぱなしで、間がないから、さまざまな問題を引き起こしているんじゃないだろうかとさえ思えてくる。

リズムとは、存在が更新されて戻ってくることである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.106)

この章の後半では、リズムと拍子の違いについて言及されている。
その中の一文がこれ。
このリズムの定義とは反対に、拍子は「機械的な繰り返し」とされている。
自然の中には、同じように見えて、同じものは一つとしてない。
だから自然には拍子は存在しない。
雨の日が続いても一度として同じ雨はない。
川が流れていても、一度として同じ水は流れない。
昨日と同じ森に見えても、同じように見えるだけで、全く同じ森ではあり得ない。
だから自然はリズム。
なんか納得。
更新されて戻ってくるっていうのは、絶えず変化しているとも言える。
変化するのは、もともとあったものが壊されて、新たに生成されること。
その意味で、リズムは、福岡伸一さんがいうところの「動的平衡」と似ている。
人は、細胞レベルでも意識レベルでもリズムを刻み続けている。
「学び続ける」とは、意識レベルでリズムを刻み続けることなのかもしれない。

新しさとは、常に(類似したものの)更新なのである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(p.106)

新しい、と聞くとついつい「これまでにない」とか「今まで存在しなかった」ってイメージがぼくにはあるのだけれど、そうじゃないんだろう。
温故知新という言葉もあるように、もともとあったものが更新され、類似したものとして目の前に現れる。
それを「新しい」と呼んでいる。
そんな感じなのだろう。
だから「新しい教育」などと聞くとき、それはきっと常に類似したものの更新であるはず。
それは、過去と未来を内側に含んだ現在で、つまり、過去の様々な教育が更新を繰り返してきて、それが今「新しい教育」という形でここにあるって感じ。
そして、その「新しい教育」は、それをベースにこの先も更新され続けるという意味でその内に未来も含んでいる。
だから、どこかで聞きかじった「新しい教育」の見える部分にだけ飛びついて実践し、また新しい教育が出たら飛びついて実践し、というのは、ひょっとすると、リズムではなく、拍子なのかもしれない。
無機質な反復。
どこから出てきた新しい教育も必ずこれまで更新され続けてきた歴史がある。
だからその文脈を受け止めずに、過去や未来をその内側に含まないただの現在だけを見つめることは,空虚で機械的な行為なのかもしれない。

ひとまずは、気になった一文抜き出し読みは終了。
思いの外長くなってしまったけれど、自分の思考を少しは見える化できたような気がする。
(読んでくれている人がいたら、たまったもんじゃない文章だろうけど…)
さて、この抽象を、どうやって日々の具体(実践)に落とし込んでいくか。
まあ、焦らず、ぼちぼちいこう。

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