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132.(76/365) Just wasting time

タイトルの言葉は、「ナマケモノ教授のムダのてつがく」(辻信一 著)の終章の中に出てくる言葉だ。
意味は、「ただ時間をムダにする」。
ぼくは、とてもこの言葉を素敵だなあと感じた。
今の自分を取り巻く環境や世の中は、どちらかというと、この言葉の真逆を進んでいる。
より速く、より正確に、より効率的に。
それもある部分では、もはやぼくたちの生活になくてはならないものになっていたりするから、それら全てが悪いわけではないと思う。
そういうのが必要な場面はある。
でも、ムダは余白であり、心の余裕だ。
それがなくなって、すき間なく敷き詰められた時間や空間は、常に背後から何かに追われている錯覚を生み、心と体を消耗させる。
「間」がなければ、リズムも生まれない。

昨日は、朝から最高の天気だった。
気温は春を超えて、いきなり初夏になったようだった。
頭の中では、朝1日の予定を考えている自分がいた。
「ちょっと学校に行って、来週の準備をしておこうかな。」
「ああ、先にあのクラファンに必要な画像を作って…」
「来年の校内研の計画、いいものにできるように提案できるたたき台考えてみようかな。」
これら全てが目的的である。
何らかの目的があって、それを目指して考えている。
「直線的思考」とは、人類学者ティム・インゴルドが言った言葉だ。
ぼくは、直線的思考に侵されているのかもしれない。
母と父の体調がこのところあまり良くなく、動くのもなかなか大変だと聞いて、この日は代理で買い物に行くことになっていた。
予定はそれだけ。
その先の予定を考えていて、目的的である自分に気づいた。
とりあえず、買い物を済ませる。
久々に実家に行き、父や母とも少し話す。
話した後、実家を後にし、車に乗り込んだ。
けれど、まだ予定は決まっていない。
でも、車は進む。
何をしよう。
車は進む。
止まるわけにはいかない。
後ろからはどんどん次の車がやってくる。
ぼくが止まると、みんなに迷惑がかかる。
車は進むものだ。
予定は決まらない。
進む。
そんな自分ではどうしようもないようなループに陥りそうになった時、赤信号で空を見上げた。
雲ひとつない晴天だった。
その空を見て、予定が決まった。
「よし、ただムダに時間を過ごそう。」

モルックとビールとコンビニで買った蕎麦を持って、淀川の河川敷へ行った。
行こうとしていた河川敷は、何かのイベントで混雑していて、駐車場に入れなかった。
仕方ないから、枚方大橋を渡り、対岸の少し小さめの、と言っても十分な広さの草原がある河川敷へ向かった。
車を停め、適当な場所を見つけてレジャーシートを敷き、妻とご飯を食べた。
そしてビールを飲んだ。
目の前では、少年たちが野球やサッカーをやっている。
どのグループも遊びで、どれも本気ではない。
みんな適度にゆるさがあって、それらの空気が河川敷の開放感と相まって、その場の雰囲気をとてもスローで心地いいものにしていた。

キリンの一番搾りを飲む。
最高。
もう言葉にならない。
というか、言葉はいらない。
スマホからは、never young beachの「春らんまん」が流れる。
どうしてこんなことをしているのか?
そう聞かれても、答えられない。
だって、やりたくなったから。
だって、気持ちがいいから。
その行為が、別の何かのためにある手段なのではなく、その行為そのものが目的のような時間。
ビールを飲むと、眠たくなった。
だから、少し寝た。
微かに吹く春風が気持ちいい。
起きると、横で妻も寝ていた。
ぼくは、体を起こし、持ってきた簡易組み立て式イスを組み立て、そこに座って本を読む。
しばらくすると、妻が起きてきて、モルック勝負をすることにした。
結果はぼくの2連敗。
帰り際に、妻にスタバのチャイを奢った。
ただただ過ごした時間。
でも、「ムダにしたなあ」という気持ちはこれっぽっちもなかった。
そこには、ただただ満たされた気持ちだけが残った。

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