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103.(47/365) 生命は、根元的に流動的な環境を必要としている。

タイトルは、以前から読んでいる河野哲也さんの「間合い 生態学的現象学の探究」の中の一文である。
昨日読んでいて、ひっかかるものがあって、情報カードに書き抜いた。
直観的に「あ、これで何か書こう」と思い、いつもこのnoteを書いているリビングの机の上に、わざとそのカードだけ置いておいた。
今朝起きて、そのカードを見て、やっぱり書こうと思ったので、こうして書いている。(書く気がなくなっていたら、別のことを書いていたと思う。こうして、その時に変わる可能性が常にあるのも一種の流動性か。)

さて、この文に、ぼくはとても納得した。
その納得の根拠となった一文がある。
それがこの文だ。

世界の中にあることとは、世界に浸っていることである。
「間合い 生態学的現象学の探究」河野哲也

生命の誕生は、海。
人間は、母親の羊水の中で育つ。
生まれてからも、大気に浸っている。
そう思うと、タイトルとなった一文にも「なるほどなあ」とうなずける。

私たちは、空気や水の中といった流動的な環境にこそ住めるのであり、固体の中には住めない。空気や水が動くことなく、その流動性によって私たちのいる場所にやってきてくれなければ、私たちは窒息し、干上がる。水は触った手を取り囲み、人間を取り囲む。流体は、文字通り、私たちを取り囲む環境である。
「間合い 生態学的現象学の探究」河野哲也

仕事柄、どうしても教育と結びつけて考えようとする癖がついている。
果たして、今ぼくが関わっている教育の環境は流動的だろうか。
学年、クラス、時間割、座席、教室、学ぶ内容、学び方、人間関係。
残念ながら、固定的なものが多いように思う。
それって、つまり生命が根源的に必要な環境とは真逆だ。
人が、水や空気、栄養素を内部へ取り込み、分解や排泄によって不必要なものを外部へと出す循環から考えると、固定的であることは、循環を阻害する。
血液もドロドロになると、命に関わる。
もっとぼくらには、循環するものが水と空気以外にもあるという視点に立って教育を考えなければいけないのではないか。
今の学校のシステムが大量生産の工業ベースで約150年間続いてきたことは、明らかだ。
工業製品そのものは、水や空気を必要としない。
そこには、循環がないからだ。
でも、人間は工業製品ではない。
その当たり前を忘れてしまった結果、時代が大きく変わる転換期の中で、さまざまな弊害が噴出している。
クラスを、職員室を、もっと流体で満たす取り組みが求められているのではないか。
小さなところから、自分の半径数mからでいい。
その環境が流動的であるかどうか、そのことを常に心に留めておきたい。
文字通り、先生も子どもたちも水を得た魚のような日々を過ごすために。

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