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あいまいにあまいままに

さいきん、指示のあいまいな上司とか、時間の見積りがあまい打合せとか、そういうちいさなことに、こっそりとむっとしている自分に気がついた。

人がむっとするのは、どうしてなのか。

むっとすることとか、不満の裏には、たいてい「自分は正当に扱われていない」という気持ちが隠れている。要は相手に、私をもっと大切にして!と無意識に望んでいるわけである。

もっというと、人にはそれぞれ「こうあるべき」っていう無意識の型が刷り込まれていて、それに他人がはまらないと、許せない。

そして人は、自分に刷り込まれたそれを「常識」「普通」「あたりまえ」とかいう言葉に変換して他人にぶつけたりする。
「普通はこうするべきだ」とか「常識的に考えてそんなミスありえない」というような用法で使う。

じゃあその型は他人を傷つけるばかりのものかというと、そうじゃない。
その型は、自分自身にも適用されてしまって、型にはまらない出来ない自分にいらついたり苦しくなったりする、というパターンもある。やっかいだ。

それでは、こうあるべきだという無意識の型は、あるだけやっかいな存在かというと、そういうわけでもない。

こうあるべきという型よりは、「こうなりたい」という型もあるんじゃないか。はまりたい型とでもいうか。

人のとんがった個性や、強い信念や、まばゆい美しさや、志や、突き詰めていく信条とか、価値観や、人の強さとか多様性にも繋がるような。自分はこうでありたいんだ!っていう。

こうじゃなきゃいけないということも、こうでありたいということも、ほとんど同じで、紙一重。危険で、心の拠り所なのね。



私自身についていえば、型はあいまいな方がいいなと思っている。柔軟さを失いたくない。さてー、どうしようかな?とあいまいでいる時間も楽しみたい。
人にも自分にも優しいほうがいい。
人々の個性は無限のグラデーションの中にあるので、本来は、線引きをすることも、型にはめることも、難しいはずだ。

話がずいぶん脱線した。
言いたかったのは、私は、自分を含めた人のあいまいさもあまさも許していたい。むっとするというよりは、「大したことないよね」って、許す。

なんか、話がずれている気もするけど。(笑)
あいまいにあまいまま〜

おわり。

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