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ノスタルジック・アディカウント #18

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 悄然となったおじさんを『音乃』が支え、ぼろぼろにされた『俺』をののが支え、俺たちはひとまず家の中に入った。『音乃』の部屋――ではもちろんなく、その奥の、生活の温度のかけらもないリビングに移動した。

 蛍光灯の白い明かりが寒々しい。
 一本が切れ、さらにもう一本も切れかけているらしく頼りなげな明滅を繰り返している。まるで地下室みたいに、部屋のなかは薄暗かった。

 人工の半端な明かりは、雲に隠れた月にも劣る。

 俺は初めて、そんなふうに思った。

 おじさんはダイニングテーブルに肘をつき、組んだ手の上に額を乗せて項垂れている。
 ののは埃のかぶった救急箱を横において、『音乃』の足を手当てしてやっていた。

 『俺』は、ののの介抱を断り、用意してもらった濡れタオルを顔に当てて、ドアのそばの壁にもたれかかるようにして座っていた。左の目元、右頬がうっ血している。口も切ったらしかった。その表情はタオルに隠されてしまって――隣に立っている俺からも見えない。

「あたしの説明の仕方がまずかったの」

 床にぺたんと腰をおろし、ソファに座る『音乃』の足を拭きながら――ののが本当にくやしそうに、悲しそうに、呟くようにして言った。

 事の発端――といっていいものか、それはののにあったようだ。

 交差点で俺たちと別れて戻ってきたののは、家の中でおじさんとはち合わせてしまったらしい。
 普段ならまだ仕事から帰ってくる時間ではないはずなのだが、おじさんは、今朝『音乃』の部屋から話し声が聞こえたことを不審に思い、心配になって、会社を早退してきたのだという。

 『音乃』とおじさんは、もう何年も会話らしい会話をしておらず、それどころか顔すら合わせないまま今日まで来ていた。

 だから簡単に声も掛けられなかった。

 帰ってきてしばらくは、耳をそばだて部屋の様子を窺っていたそうだが、常にそこに居るはずの娘の気配がまったくしないことに気がついた。シューズボックスを開けてみるとクロックスがない。部屋をノックし、そっと開けてみると娘の姿はなく、その上、明らかに誰か別の人間がいたらしい形跡――空のコップが三つとお盆、散らかった床の上に不自然にあいたスペースふたつ――を目にし、驚いたところで、ののが鍵を開けて入ってきた。

 ここまでは、ののが直接おじさんから聞いた話だそうだ。
 ののは一度口をつぐんでから、すこしだけ声のトーンを落として続ける。

「あたし、パパが居るなんて思わなくて。だから、びっくりしちゃって。――つい、言っちゃったの、『パパ』って。それで――」

 ごまかすことが、できなくなった。

 君はだれだ、なぜ家の鍵を持っている、なぜ私のことをそう呼んだ――詰問されて、ののは、信じてもらえないかもしれないけれど、と事情を打ち明けたのだそうだ。

 自分たちはもう一つの世界からきた――。
 『音乃』を助けるために――。
 彼女が〈こう〉なってしまった原因は――。

「夢の話を、したの」

 ののは泣きそうに言った。

「本当は、そのあとちゃんと、さえちゃんのことも説明するつもりだった。でも――」

 分岐点となる夢の話を終えたところで。
 最悪のタイミングで。

 『俺』が来た。

「そしたらパパ、急に、怒りだして――」

 玄関先で『俺』を殴り飛ばした。

「あたし、どうしたらいいのかわからなくて――そしたら、廊下に落ちてたケイくんの携帯が鳴ってるのに気がついて」

 ののはいつのまにか、手当ての手をとめていた。濡れたタオルを膝の上で握りしめたまま、うつむいて、肩を引き攣らせている。俺の位置からは、その後ろ姿しか見えない。

 『音乃』が、もういいです、と言った。手当てに対して言ったのか、それ以上話さなくていいという意味で言ったのか、俺にはわからなかったが――ののはそのまま口を閉ざし、『音乃』はソファの上で膝をたたんだ。

 おじさんは、相変わらず暗い明かりのなかで項垂れている。

「――なんで、おまえ」

 ここに来たのか、と俺は『俺』に聞いた。
 適当に時間を潰しているかもしれないとは思っていたけれど、なぜわざわざ、あんなに忌避していた『音乃』の家に。こんなときにかぎって。よりにもよって。

「いなかったんだよ。駅のほうに」

 うめくように『俺』が言う。口にタオルを宛がっているせいか、もそもそとしていて不明瞭。そばにいる俺でもやっと聞き取れるくらいの声だった。

「とりあえず探したけど、見当たらなくて。けど、俺が見つけたところで――どうしようもないだろ。どう声掛けていいかわかんねぇし、深山だって――」

 『俺』はそこで言葉をとめた。

「――そのまま家に帰ってもみずほに殴られるだけだし。だから、連絡が来るまで」

 わずかに顔をあげて『俺』はのののこわばった背中に視線をやった。

 ののを頼ろうと思った――ということか。

 ソファに座る『音乃』は、膝の上に顎を乗せたままでいる。なにを思っているのかは――やはり、読み取れない。

「……すまない」

 か細い声で、おじさんが言った。初めて聞いたこっちの世界のおじさんの声は、まるで針金みたいだった。

「すまない、本当に。――どうかしていた」

 おじさんは顔を上げないまま繰り返した。

 ののがおじさんを振り返った。
 『音乃』はいっそう強く膝を抱え込む。

「どうしても、止まらなくなってしまったんだ。止められなかった。行き場のなかった感情が、すべて、彼に向いてしまった。夢の話――分岐点というのか――私にはよくわからないが、それもあくまできっかけに過ぎない、元凶ではない。わかっているつもりだよ。娘のしでかしたことも知っている。学校から呼び出されたと――当時、母親のほうから話もあった。――ただね」

 おじさんの針金のような声が、かすかに濡れた。

「思ってしまったんだ」

 ちかちかと、蛍光灯がはかなく明滅している。

「この――今の生活の、すべての原因は――妻にひどくあたり、娘ともろくに向き合うことのできない私自身にあるのだと――こうなるべくしてこうなったのだと、ずっと、そう自分に言い聞かせ続けてきたのに……君を、見たら」

 おじさんが、顔をあげた。ののを見つめる。

「充実した毎日を送っているのだろう君を見たらね、どうしようもなくなってしまった。うちの娘もこうなれるはずだったんじゃないのか、あんなことをせず、苦しむことも悲しむこともなかったんじゃないのか――そう思わずにはいられなくなってしまったんだ」

 微笑むおじさんの横顔は、あまりにも痛々しい。

 『俺』が背中を丸めた。『音乃』も背中を丸めた。

 おじさんは、『俺』のほうへと顔を向ける。

「君のせいじゃない。わかっているんだ、佳君。……申し訳ないことをした、本当に。謝って済むことではないけれど」

 『俺』は拳を握りしめ、ますます背中を丸めた。微かに首を振ったように見えたが、言葉は、出ない。

「音乃」

 父親の呼びかけに、『音乃』はびくりと肩をふるわせた。

「……綺麗にしてもらったね」

 ぐしゃぐしゃの髪。ぐしゃぐしゃの口元。普段、彼女が着ないような――姉貴の服。

 『音乃』の喉が、くう、と小さく鳴った。
 抑えた嗚咽が殺風景なリビングを濡らしていく。

 ののは、少しためらうような仕草を見せてから、『音乃』の横に座り、そっと肩を抱いた。『音乃』の嗚咽が大きくなる。ののは両手で彼女の肩を抱きしめた。その瞳にもうっすらと涙がにじんでいる。

 『俺』は――ただひとり、膝をかかえて項垂れていた。




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