ノスタルジック・アディカウント #17
ののは、ケイくんが、ケイくんが、とそればかりを繰り返した。
落ち着かせようと何度か呼びかけるとののはようやく、パパが、と言った。言ったとたんにまたパニックを起こしたようになって、とにかく早くきて、佳くん早く――と、そこで通話はぷつりと切れてしまった。
どうしたんですか、と『音乃』が緊張した声をだした。
おじさんが、と俺は言った。
『音乃』はいきなり立ちあがると、走って公園を出ようとした。が、足が痛むか、すぐにくずれ落ちるように膝をつく。
俺が駆け寄ると、先に行ってください、と『音乃』は言った。
気が引けたが迷っている暇はなかった。
コートと靴をその場に残し、念のためにと携帯も押しつけた。『音乃』はなにか言ったようだったが、聞こえなかった。俺もかなり焦っていたのだ。
公園を出て、住宅街を走る。
一瞬、『音乃』の自宅でなかったらどうしようかとよぎって足が緩んだが――その思考はすぐに捨てた。そのときはそのときだ。
マンションについた。エントランスに駆けこむ。
こういうときにかぎって――エレベーターは一階にない。直前に住人が乗りこんだらしく、パネルの階数表示が上がっていく。
早く。
――早く。
俺は何度もボタンを押した。
嘲笑うかのように、エレベーターはことさらゆっくり上昇を続ける。つい舌打ちが出た。
待っていられない、と奥の階段を駆け上がる。
二段飛ばしでのぼったせいで、一度、転んだ。
「パパ、やめて、パパ!」
――ののの声だ。
最後の段を飛ぶように上がって、廊下に出た。
そこで俺の足は止まってしまった。
どくどくと、心臓が内側から鼓膜をたたく。
一瞬、視界に白い砂嵐が走ったように――感じた。
公園からここまでほぼ全力疾走、急に立ち止まったせいなのか。
それとも――あまりにも衝撃的な光景が――そんな錯覚を引き起こしたのか。
スーツ姿の痩せこけた男が、馬乗りになって『俺』を殴っていた。
「パパ!」
ののが、男にしがみついて引きはがそうとしている。
目を、耳を、疑った。
――おじさん?
あれが――おじさん?
俺の知っている、ふくよかで陽気のかたまりであるようなののの父親と同一人物とは思えなかった。頬はげっそりとこけている。髪も白髪が多くて灰色だ。目は落ちくぼんで、荒んでいて、まるで悪鬼のようだった。
「佳くん!」
――ああ。
呆けている場合じゃない。
俺はそこへ飛びこんだ。真横からおじさんに組み付こうとした――が、勢いをつけすぎて体当たり同然になってしまった。モノクロの枯れ枝みたいなおじさんは、呆気なく横に転がった。俺も体勢をくずして、重なるようにおじさんの上に倒れこむ。
「ケイくん、大丈夫? ケイくん!」
ののの声がすぐ後ろで聞こえる。うう、と『俺』がうめいている。意識はあるようだ。
「おじさん――」
すみません、と上半身を起こそうとした矢先、顎に強い衝撃が走った。脳みそが揺れた。頭と体を繋ぐ糸がぶつりと切られたみたいだった。肘に、腕に、力が入らない。
殴られたのだと、倒れてから気がついた。
おじさんは俺を押しのけ、ののを押しのけると、ふたたび『俺』に馬乗りになった。
ののが必死で止めている。
『俺』は顔をかばって身をよじっている。
目が、かすむ。
音も、声も、どこか遠い。
――いったいなぜ、こんな状況に。
なにがあったというのか。
ののが突きとばされた。
おじさんが『俺』を殴っている。壊れた機械みたいに、繰り返し。
俺は起き上がろうとした。ぐにゃぐにゃと視界がゆがむ。吐き気に襲われる。
ぱぱ――。
けいくん――。
ののが泣いてる。
のの、が、泣いてる。
這いつくばって手をのばす。おじさんのスラックスの裾を掴む。
引っぱった。
乱暴に、払われた。
おじさん、という声が出なかった。
ごめんなさい、ごめんなさい――。
ののが、泣いてる。
エレベーターのドアが、開いた。
――『音乃』。
狭い箱の中で、俺のコートを羽織り、靴を引っかけた『音乃』が立ちすくんでいるのが見えた。両手で口をおさえている。おとうさん、と聞こえぬはずの幽かな声が、なぜか届いた。
エレベーターのドアが閉まろうとする。
『音乃』は片手でドアを抑えると、転がるように箱の中から走り出た。
靴が脱げ、羽織っていたコートが落ちた。
「おとうさん!」
おじさんの手が、止まった。振り返る。
『音乃』はおじさんの前で足を止めた。
まるで魂が抜けていくように――おじさんの肩が、腕が、落ちた。
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