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ノスタルジック・アディカウント #16

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 『音乃』は案外すぐに見つかった。
 人気のない住宅街を幽霊のように歩いていた。

 その後ろ姿を見つけたとき――無言でつかまえてしまえばよかったのかもしれないけれど――俺は思わず、『音乃』、と細い背中に声をぶつけてしまったのだ。

 彼女は俺を見るなり逃げだした。転がるように、足をもつれさせながら。

 追いつくのは簡単だった。
 ただ、追いついてからが大変だった。

 錯乱という言葉がたぶんいちばんしっくりくる。
 俺が腕を掴むや、『音乃』は激しく暴れだした。腕を振り、身をよじる。細い体のいったいどこにそんな膂力が眠っていたのか。予想外の反応に戸惑ってしまったのもある。抑えきれずにバランスをくずして、彼女もろとも地面に倒れこんだ。

「いやだ、いやだ、きらい、きらい!」

 『音乃』の叫び声が、塀にぶつかり、電柱にぶつかり、藍色の空に放たれる。

 錯乱している。俺のことなど見えてもいないようだった。
 固く目をつむり、なにかに憑かれたように無茶苦茶に暴れる。いや、振り払うように――振りほどくように――逃れるために、だろうか。

 わけもわからないまま、ただただ俺も必死だった。人気がないのが救いだった。

 腕を押さえつけ、馬乗りになって体重を掛けた。それでも『音乃』は止まらない。

「おい、『音乃』――『音乃』!」

 ようやく、とまった。

 こぼれんばかりに見はった目に、俺が映っている。微かにひらいた口が小さく慄き、かたまった。
 両肩はこわばったまま動かない。呼吸まで止まってしまったのか。それとも時間(とき)そのものが停まってしまったのか――不自然な錯覚が、自然に起こる。

 姉貴たちに整えられた顔はぐしゃぐしゃになっていた。目のまわりは真っ黒で、口のまわりにもつやつやした桃色が散っている。みるみるうちにふくらんだ涙の粒が、黒い筋となってこめかみに流れ落ちた。

 彼女の手首は、異様なほどに冷たかった。


 すべてを放出しきったらしく、『音乃』はそのまま萎れてしまった。

 俺はひとまず、手荒なことをしてごめんと謝罪して、魂の抜けた、人形みたいになってしまった『音乃』を連れて近くの公園に移動した。

 空地に毛をはやしたくらいのとても小さな公園である。
 緑と土ばかりで目立った遊具もなく、子供の遊び場より近所の大人の憩いの場といったふうで、休日の昼間なんかは、申し訳程度に置かれたベンチにおじさんたちが座っているのをよく見かける。
 犬と一緒に休んでいたり、新聞を広げていたり、煙草をふかしていたり――暖かい季節には寝転がっていたりもする。

 幸いにして無人だった。
 『音乃』をベンチに座らせて、俺も隣に腰を下ろした。

 家のそばに落ちていたクロックスは、やはり『音乃』のものだったらしい。いま彼女は裸足である。かじかんでいるうえに足の裏も傷めているようで、ここまで移動するのもつらそうだった。

 俺の靴を履かせようとしたけれど拒絶され、おぶろうとしたらそれも拒絶され、じゃあせめて――と薄着の彼女にコートを渡そうとしたら、結局それも、無言で首を振られてしまった。

 ただ、ベンチに座ったときにやっぱり足を抱えたので、家でしたのと同じように「足」と言って再度コートを差し出したら――無言ではあったけれど、素直に受け取って膝に掛けた。そしていつしか、肩まですっぽり埋まっていた。

 冬の六時はもう夜だ。

 空はすっかり暗くなり、公園も濃い藍色に支配されている。入口近くにぽつんとある街灯だけが、白い輪っかを落としている。

 俺は『音乃』を窺った。

 なにをも映していないような、曇った目。化粧がくずれているから余計に、彼女の横顔が悲愴に見えた。

「……顔、すごいことになってるよ」

 逡巡したあげく、だった。
 きっかけの言葉を、ほかに見つけられなかった。

「きらいです、こんなもの」

 『音乃』は手の甲で顔をこすりまわす。
 ごしごし、ごしごしと、執拗に。

「きらいです」

 髪に手をつっこんで掻きまわした。爆発したみたいに髪の毛はぼさぼさと跳ね、かろうじて分かれていた前髪ももとのとおり、目元をすっかり覆ってしまう。造りあげられた『音乃』は、なくなった。

「大変だな、嫌いなものがたくさんあって」
「楽です」

 ぐしゃぐしゃになった『音乃』は、コートの中に口を隠す。

「きらいになったほうが――ぜんぶ嫌いでいるほうが、楽です」

 俺は『音乃』から外した視線を、街灯へ投げた。
 さっきから手に持ったままの携帯――『俺』から借りた携帯が、やけにずっしりと、重たく感じる。すぐにでも姉貴たちに連絡を入れるべきなのはわかっている。心配しているだろうから。

 けれど『音乃』の前でそれをするのはどうにも気が引けた。
 かといって離れるのも不安だった。目を離した隙にまた消えてしまいそうなのだ。

 俺はふたたび逡巡しながら、口をひらく。

「さっき――」

 とたんに『音乃』が硬直した。
 なにを聞かれるのか、言われるのか――警戒している。

「おどろいた。いきなり突き飛ばされて、あっというまに出てったから」

 たっぷりの間をおいてから『音乃』はようやく、ああ、と思い当たったように呟いた。

「家でのことですか」
「うん」
「すみませんでした」
「いや、いいんだけど。……ののをかばったのか、あれ」
「違います」

 『音乃』は即座に否定して、苦しそうに顔をゆがめた。

「私は……そんな、いい人間じゃありません」
「じゃあ――」
「自分を守っただけです」

 『音乃』は、ふ、と短く息を吐きだした。警戒心を剥き出しにしていた肩が、悄然と落ちる。

「あなたの言葉は辛辣でした」

 その一言が――辛辣だった。
 がらにもなく我を忘れて、ののに対して攻撃的になっていた自覚だけは、あったから。

「自分のことを言われているみたいに――遠回しに自分が責められているように感じてしまいました。……たしかに、あなたがたに話していないことはありました。そのせいで結城君が責められていて、なのに私はただ聞いていることしかできなくて」
「それって、キーホルダーを盗んだこと?」

 『音乃』は驚いたように顔をあげたが、すぐにまた、コートのなかに引っ込んでしまう。

「結城君から聞いたんですか」
「うん。俺だけ、だけど」
「そうですか。知らないんですね、彼女たちは」

 ののと姉貴のことなら――そうだ。

 『音乃』は続ける。

「あのときから、私はずっと――きたない人間でした。泥棒もしました。嘘もつきました。石野紗枝の機嫌を取るために他の子を貶めるような手紙を書いたりも、しました。自分さえ助かればそれでいいと、本気でそう思っていた――とてもきたない人間でした」

 彼女の独白に、俺はなにもこたえられない。

「結城君は、私がやらかしたあとも……見かねて、ときどき――帰り、交差点で一緒になったりしたときに――話しかけてくれました。普通に、なにごともなかったように。でも、それが良くなくて」

「うん」

 そこから先は、彼女自身からすでに聞いている。
 『音乃』は一度口をつぐんだ。

「……私は、自分がひどい人間なんだと……そのときに初めて、本当の意味で理解しました。外に出てはいけない人間なのだと――そう思って、だから」

 部屋に、閉じこもったのか。

 でも。

「なんで――」

 ――そんなふうに。

 普通は逆じゃないだろうか。周りの人間を恨みこそすれ、自分を責めるなんてこと――。

 『音乃』の色のない瞳が動く。少しだけ、俺を見た。

「父と母が離婚したのも、私のせいです」
「え……?」

 『音乃』は前方の、夜の沈んだ土の上に視線を投げた。
 いつ落ちたともしれないがさがさの、木乃伊(ミイラ)みたいな枯葉が、湿った微風に引きずられている。

「私が不登校になってから、両親はよくケンカするようになりました。いつも父が、母を責めたて詰(なじ)っていました。そして母は――出て行きました。そのときも、私は、部屋のなかで自分を守っていました。自分だけを。自分さえ安全な場所にいられたら、他の人はどうなってもいい、ぐちゃぐちゃになってもいい、だってみんな嫌いだから、って、そう自分に言い聞かせて。……でも、本当は――」

 『音乃』の声が少しふるえた。

「本当に、私が、殺してやりたいくらい嫌いなのは――」
「いいよ」

 たまらず、止めた。

「いいよ、言わなくて」

 その先は聞きたくなかった。言わせたくなかった。
 ちぐはぐに思えた『音乃』の言葉。

 自分はひどい人間なのだとつながりを断って。
 みんな嫌いだと呪文のようにとなえつづけて、『音乃』は外殻を作り上げた。
 殻の中で、私のせいだと繰り返し、あたかも贖罪するがごとくに、彼女は自分を刺しつづけた。
 周囲から自分を守り、かわりに自分で自分を傷つけて――そうすることで彼女はバランスを取っていたのだろう。

 ――そんなバランスの取り方があるか。

 なんて不器用なのだろう。たったひとつ釦を掛け違えただけで――こんなにも、変わってしまうものなのだろうか。

 同じ――〈深山音乃〉なのに。

 『音乃』は口を引き結んで膝に顔をうずめた。もそもそと、続ける。

「あのひとは――もう一人の私は、最初、優しく接しようとしてくれたんです。でもそれが、私には――煩わしくてたまりませんでした。同じ人間なのに、同じ人間のはずなのに、彼女と私はなにからなにまで違いすぎて」
「……べつに、気休めで言うわけじゃないけど。あいつはあいつで厄介な部分(とこ)、結構あるから」

 もうわかったと思うけど、と付け足すと、『音乃』はうっそりと顔をあげた。少しだけ、首をひねる。うつむきがちに――暗いのと前髪とでその目元は見えないけれど、こちらを窺うような仕草である。

「あなたがたは付き合ってるんですか」

 あまりにも唐突。あまりにもストレート。
 俺は面食らってしまった。

「――なんで」
「距離感が」
「……まあ、幼馴染だし」

 『音乃』は納得しなかったらしい。なんの反応も示さない。
 俺は溜息をついて、ないよ、と言い直した。

「付き合ってない。あいつ、ついこの前まで彼氏いたし」
「あなたは彼女のことが好きなんですか」
「……結構ずばずば聞くな」

 『音乃』は微かに笑ったようだった。こわばっていた口元がほんのり緩む。

「私はきたない人間なので――もしも、彼女もずるさを持っているのなら――すこしだけ、安心できるような気がしたんです」

 ――ずるさ、か。

「連絡、どうぞ」
「え?」
「私が嫌がると――思っていたんじゃないですか」

 『音乃』は俺のもっている携帯を示すように顎を動かすと、膝の上に顔をもどした。心なしか、淡々としていた声も穏やかになっている。吐き出したことで多少すっきりしたのだろうか。

 俺は姉貴の番号を呼びだした。持っているのは『俺』だ。

 ――まだ、探しているだろうか。

 今までの言動からして、どこかで時間を潰している可能性のほうが高いようにも思う。この寒空だ。『音乃』と合流してから、それなりに時間も経ってしまっている。時間を潰してくれていたほうが、ありがたいのだけれど。

 ――――。

 出ない。

 一度切って、かけ直した。

 やはり出ない。

 ざらざらとしたものが胸のあたりを撫でていく。なんだかすごく――ものすごく、厭な予感がした。
 根拠はない。だから余計に気持ちが悪い。

 『音乃』が窺うようにこちらを向いた。

 今度は根気づよく鳴らし続ける。
 呼び出し音がとぎれた。

「もしも――」

『佳くん!』

 それは、悲鳴のようなののの声だった。


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