小説『犬も歩けば時代を超える』(19話目)
19話 犬千代、お母様がいない夜
「ねぇ、当たったわ!すごい!温泉旅行が当たっちゃったの!」
お母様が部屋に踊るように駆け込んできた。
目がキラキラして少女のようだ。
温泉とか言っていたけど、そんなにお母様は温泉が好きだったのか。
戦国の世で私が生きていた頃は、私はよく爺と温泉まで遠乗りしていたけれど、お母様も行きたかったのかもしれない。
「プールとかも付いている温泉パークよ。水着もいるわね。温泉も色んなものがたくさんあるらしいわ。それに、泊まるホテルは食事が美味しくて有名なところみたいよ。」
部屋で転がって本を読んでいた留美がムクッと起きると、お母様の温泉旅行のパンフレットを見た。
長男も来て「どれどれ」と見ている。
「泊まりだけど、割合近場だからたくさん遊べる時間があると思うよ。」
と、お母様が言うと、子供たちはパンフレットを見て、
「へー!」
と、喜びの声を上げた。留美も
「ここ知ってる!CMでやってた。行ってみたかったんだ。」
と、まるで自分が当たったかのようにクルクル回って喜んでいる。
「うちの家族はみんな温泉好きだから!」
お母様がパンフレットを胸に叫んだ。
これは相当好きだな。
この家の旅行の最初の段階は、イマドキのインターネットでの下調べだ。
現代は自宅にいながら何でも調べられる。昔のように家臣がいなくても短時間であっという間だ。
行き先の温泉施設の場所などはもちろん、どんな温泉があってどんな効能があって、お食事処はどんなメニューがあるのか。
他にプールも付いているとあれば、どのようなプールで、スライダーなどもあるのか。お土産はどのようなものがあるのか。温泉施設の周囲にも遊べる場所があるのか?
インターネットには鮮やかで楽しそうな画像が映し出され、施設などの案内がめまぐるしく表示される。食事のメニューまで載っていて、
「うわぁ、これ食べてみたいね。」
などと、今食べたいとでもいうように子供たちは眺めている。
「泊まるところはここよ。温泉パークからは少し離れていて、バスで移動するんだけど、かなり良さ気なのよ。食事がゴージャス!カニのお刺身までついてる!」
とお母様が言うと、子供たちは、
「きゃー!」
と、興奮しだした。どうやら蟹が好きらしい。
「マツタケの土瓶蒸しもある!」
と、お母様が言うと、子供たちはまた、
「きゃー!」
と興奮している。マツタケも好きらしい。
親子ですごく楽しそうに盛り上がっている。パソコンを前にしているだけなのに、こんなに盛り上がれるんだと思うと、傍目で見ていると面白いものだ。
そこへ、父親が夕方仕事から帰宅してきた。
「おお、早速下調べしているな。ところで、当たった温泉旅行はもうすぐだぞ。早いところ仕度をしたほうが良くないか?」
と言っている。父親のほうが現実的みたいだ。
留美が立ち上がって、
「あ!私、水着が去年の着られないかも!」
と、言い出した。これは明日は買い物だなと私はウトウトしながら横目で見た。
たった一泊というのに、この家族の買い物といったら大変な騒ぎだ。
要るものは、表に書き出してみないとまとまらないほど。
しかし考えてみると、あまり旅行らしいものも行っていないようだし、旅行慣れをしていないのかもしれない。
私などは戦国時代には身の回りのものと弁当と非常食を持てば、それは肩に布にくるんで背負える程度だった。でもこの家族の旅行必需品は数え切れない。身の回りのものをそっくり持って行きかねない。
「ねぇ、お母さん。これ、新調していい?ボロいの持って行くのいやだわー。新しいトラベルポーチとか欲しい~。」
留美がお母様に甘えるようにねだっている。
お母様自身も、荷造りしながら購入したいものをメモし始めている。
「おかあさん、これ、旅行に持っていっていい?」
長男が言いに来た。
逆に長男は全く新調するとか考えていないようで、いつも使っているものをザクザク袋に入れている。
「あのさ、これを機会にトラベルキット作ろうよ。あなたもこれから学校の部活で合宿とかもあるんじゃない?」
お母様の買い物の口実も学校絡めるとはすごい。
長男も買い物に行くことになった。
さて次の日、お母様家族は大きな荷物を抱えて帰ってきた。
「温泉旅行そのものと同じくらいお金かけているのでは?」
と、私からは見える。
あきれている私をよそに、家族はそれぞれ荷造りをしはじめている。
そこで、父親が表情を変えずにポツンと言った。
『あのさ、ゼットはお留守番だよなぁ。』
その声に家族が一斉に振り向いた。私も顔を上げた。
そうだ、私一人でお留守番か。
私もクレートに入れて温泉旅行というわけには行かないだろう。
ツアーのようだし、その中には犬が苦手な人だっているに違いない。
よく散らかっている新聞広告に旅行会社のものがあるが、ペット可なんていうのは見たことがない。
「もちろん、ゼットがここでひとりでお留守番・・・じゃないよねぇ。どうするの?」
留美が私を恐る恐る見た。私は思わず首をすくめた。
お母様がちょっとため息をついたのが分かった。
「そうか。ゼットがいるものね、一泊ってちょっと無理があったかな。ひとりにしておくわけにはもちろんいかないし。」
お母様が言うと、長男が、
「そういう時のためにペットホテルってあるんだろう?一晩か二晩くらい預かってもらえば?」
と、言い出した。
ペットホテル?そんなものがあるのか。
私も一晩どこかへ泊まるということだな。
で、それはどんなところなのだ?やっぱり蟹とかマツタケ付?
お母様たちは温泉パークツアー旅行へ。
私はペットホテルへ出向いた。
お母様はペットホテル初体験の私を送ると、申込書や注意事項、普段の様子などを記載して係りの女性に私を手渡した。
周囲を見ると小綺麗だが豪華ではないな。
とりあえず不便がなければよかろう。
「よろしくね~ゼット君」
甲高い声の若い女性が私をお母様から抱き取った。
「いい子にしていてね。」
お母様はその後いつの間にか帰ってしまったようだ。
きっとそっと帰るように係りの女性が言ったのだろう。
ペットホテルには他にも犬やネコがいて、それぞれが寂しい声で飼い主を呼んでいた。
「おれ、もう一週間だぜ。きっと飼い主は海外旅行だ。」
という柴犬もいた。
「海外?」
と聞くと、
「この国の外ってことさ。海の向こうだよ。こうなるとなかなか迎えになんてこないさ。」
と答えた。
私は一泊って知っているが、わが身がいつまでここにいるのか知らないで不安なヤツも多いのだろう。
そういえば、昔留美が私に絵本を持ってきた。
それは『忠犬ハチ公』という本だった。
「ねぇ、ゼットはこの本のハチに似ているね。
おかあさんがお仕事でいないと、いつも窓辺でずっとおかあさんの帰りを待っている。オヤツだよっていっても、ご飯だよっていっても、ずっとおかあさんが帰ってくる方向を見ながら待っているよね。」
忠犬ハチ公とは、亡くなってしまった飼い主を渋谷駅の前で9年間も待ち続けたということで有名だそうだ。
犬でも銅像になっているという。
自分を可愛がってくれた飼い主が帰宅する時間になると駅に迎えにくるという忠誠心が好まれるのだろう。
「絵本には書いていないけど、駅で焼き鳥屋さんとかがあって、みんながあげるから駅にいついたとか話があるらしいよ。」
留美が続けて言った。なるほど、美味しいものがあったのか。
「でもね・・・。」
留美が私の目を見ながら言った。
「おかあさんを窓辺で待っているゼットを見ていると、きっとハチ公は本当に飼い主を待っていたんだって思うのよ。ゼットがおかあさんが帰る時間になると、その窓から動かないのを見ていると、ハチ公は伝説じゃなくて結構身近な本当なんだって。」
私もそう思う。
人間はずっと待っていることをすごいというが、実は待っていることができるのは嬉しいものなのだ。一番辛いのは、待つこともできないことだ。
ペットホテルの犬たちも、自分の足で飼い主を待ちに行きたいのだろう。
そこが本当に辛いところなのかもしれない。
さて、お母様たちは温泉パークで温泉やプールを楽しみ、夕食には蟹やマツタケを楽しんだ。
「本当に来て良かった!すごく楽しいね。」
お母様も子供たちも父親も、皆それぞれの楽しみ方で心行くまで楽しんだ。
多種多様な楽しみができる施設というのは、微妙に違う家族の好みに対応しているらしい。
「温泉、のぼせるまで入っちゃったわ」
「プールでスライダー10回もすべっちゃった。目がまわる~。」
なんて会話が交わされる。
ツアーはまだここからも楽しみで、夕食はこの家族が好きなメニューばかりだ。
「やっぱり旅は食よね!」
と、お母様も満足そうだ。
家族ははちきれんばかりのお腹をかかえて、ホテルの部屋で転がっていた。
「もう食べられない!」
「お母さんなんて、ワインまで飲んじゃった!ふふふ」
なんて笑っているのもつかの間、だんだん口数が少なくなってきた。お腹いっぱで眠くなってきたわけではない。
「ねぇ、犬千代・・・いや、ゼットはどうしているかしらね。」
お母様が言う。
でも口に出さないだけで家族も同じ事を考えているらしい。
「きっと、綺麗なお姉さんに抱っこされて、いつもと違うところを散歩させてもらって、ゼットなりにリフレッシュしているよ。」
と長男が言うが、誰も本当にそんなことは思っていない。
「ゼットがいないと寂しいね。」
温泉ツアーの帰りのバスは、意外に道が空いていて順調に帰路を走っていた。
ツアーの添乗員さんも上機嫌である。
「時間もありますが、どちらか寄りたいところありますか?」
しかしツアーのお客さんはわりと温泉やプールで遊びつかれてしまっていて、どこにも寄らないという。
すると、お母様が添乗員に言った。
「その分、帰りの到着時刻が早くなりませんか?」
家族はお母様が何を考えているのかすぐに分かった。
本来夜21時着であったバスがもし20時前に付くことができたら、ペットホテルに犬千代を迎えに行こうとしているのだ。
20時をまわってしまうと、ペットホテルでは一泊とみなして、迎えは次の日の朝になってしまう。
「すみません。20時前に着くことは可能ですか?」
お母様の声に、ツアー客も賛同してくれた。
もっとも、他のお客さんは疲れて早く帰りたいだけなのだが。
そのうち、トロトロと走っていたバスは加速しはじめて、調子よく走っていくバスをツアー客が応援する形になってしまった。
もちろん現代であるから、車は走る速度は守られているのだろうが。
「お願い、犬千代に会いたい。」
お母様は手を合わせて祈った。
たった一晩離れていただけなのに、お母様の心には打撃が大きかったのだ。もちろんそれは私にも言える。
「お願い、早く着いて。」
お母様が祈る様子に、父親が、
「バスが着いたら、家の車ですぐにペットホテルに向かおう。子供たちは荷物を持って家に入っていなさい。」
そうこうするうちに、ギリギリの時間でバスは到着した。お母様はバスを降りるとすぐにペットホテルに連絡をした。
「今からだと、一泊の料金がかかってしまいますが・・・・、」
と、係りの女性は言う。
「それでもいいです。でもお迎えだけはさせてもらえませんか?」
お母様は食い下がる。係りの女性は、
「あとどれくらいで来られますか?お仕度してお待ちしておりますね。」
うーん、良い女性ではないか。
お母様はお礼を言って、父親と車に飛び乗るとペットホテルに向かった。
到着すると、お店を閉める体制のところで女性が待っていた。
「ほら、良かったね、ゼット君。お母さんがきてくれたよ!」
その声を聞いて私が振り向くと、お母様が涙目になって立っていた。
両手を広げたお母様の胸に、私は係りの女性を蹴飛ばして飛び込んでいった。
係りの女性はびっくりである。
「まぁ!ゼット君すごく大人しくて、聞き分けもよくて、ご飯は残しちゃったけど優等生だったのに。
お母さんが一番なのね。すごく会いたかったのが分かるわ。」
係りの女性は私に蹴飛ばされたというのに感激している。
「会いたかったのは、ゼットだけじゃなくて、私もなんです。」
と、お母様が言った。
ふたりで抱き合っている姿を見ながら、父親が言った。
「相思相愛なんです。今度からは、一緒に楽しめるレジャーにしたいですね。」
その夜は、お母様とずっと抱き合って眠った。もう離れ離れはごめんだ。
(20話目へ続く)
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