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【#32】『羅生門』を原典『今昔物語集』との比較から読む

『羅生門』は芥川龍之介の記した文学作品で、高校の国語の教科書では必ずと言っていいほど採択されているテキストですよね。

行き先を失った下人が羅生門の楼の中で、死人の髪の毛を抜く老婆に遭遇し、「罪」を犯すことへの躊躇いを捨て、老婆の着物を奪って逃げていくというダークなストーリーです。

実はこの作品は『今昔物語集』の「羅城門の上層に登りて死人を見る盗人のこと」という古典の説話を引用して作られています。

今回は『羅生門』の主題を、その原作である『今昔物語集』の比較から考えていきたいと思います。※あくまでも個人的な見解なので参考程度に。

『羅生門』と原作の相違点

まずは、『羅生門』の原作とされる『今昔物語集』の「羅城門の上層に登りて死人を見る盗人のこと」という古典の説話を見てみましょう。

今は昔、摂津国の辺りから盗みを働こうと京に上ってきた男が、日がまだ明るかったので、羅城門の下の物陰に身を隠していた。朱雀大路のほうの人の行き来が激しかったので、人通りが静まるまでと思い、門の下で待ち、立っていたのである。すると、山城のほうから大勢の人がやってくる音がしたため、それに見られまいと門の上層にそっとよじ登った。見れば、火がぼんやりとともっている。
 盗人は、「妙だ」と思って、連子窓からのぞいてみると、若い女が死んで横たわっている。その枕元に火をともして、ひどく年老いた白髪の老婆が、そこに座って、死人の髪を手荒くむしり取っているのだった。
 盗人はこれを見てわけが分からず、「これはもしかすると鬼ではないか」と思ってぞっとしたが、「ひょっとすると死人の霊かもしれない。脅して試してみよう」と思って、そっと戸を開けて、刀を抜き、「貴様は、貴様は」と言って走り寄ると、老婆は慌てふためき、手をすり合わせてうろたえた。盗人が、「お前はどこの老婆で、何をしているのだ」
と問うと、老婆は、「私の主人でいらっしゃる人がお亡くなりになったのですが、弔いをしてくれる人がいないため、このように置き申し上げたのです。その御髪(おぐし)が背丈に余るほど長いので、それを抜き取って鬘(かつら)にしようと思い、抜いているのです。お助けくだされ」と言う。
 盗人は、死人の着ていた衣服と、老婆の着物、それに抜き取ってあった髪の毛までを奪い取って、下の階に降り、走って逃げ去った。
 そういう次第で、羅城門の上層には死人の骸骨が多かった。弔いなどができない死人を、この門の上に置いていたのである。
 このことは、その盗人が人に語ったのを聞き継いで、こう語り伝えているということだ。

https://setsuwa-hyakkei.com/archives/1048より引用

この説話と『羅生門』の異なる点は大きく分けて3つです。

1 冒頭における下人の罪を犯すことに対する意識

 原作では、京から登ってきた男は明確に「盗み」を働く意思を持っていたことが記されていますが、『羅生門』では下人の心の中に罪を犯すかどうかの迷いが描かれています。ここは下人にまだ理性が残っており、下人自体が合理的な判断の下せる人物であったという重要な描写になっています。

2 老婆の弁明

 老婆の弁明のシーンで、『羅生門』では老婆は髪を抜かれている女に関して、「生前、人を騙して利益を得るような悪事を働いていた女なのだから私に髪を抜かれても文句は言えないだろう」というような自身を正当化する主張を述べます。ここは原作にはない部分で『羅生門』のクライマックスで下人が罪を犯す引き金になる重要な部分ですね。

3 物語の終わり方

物語の終わり方にも違いがあります。原作は盗人のその後について描かれていますが、『羅生門』では「下人の行方は誰も知らない」という有名な表現で物語が閉じられています。実際に『羅生門』を高校時代に履修した方の多くは、下人のその後について考えて見る、と言ったような内容の授業を経験したのではないでしょうか。

総括

以上を総括すると、抽象的に言えば「人間の精神の脆弱性」、具体的に言えば「人間のエゴイズムはどこまで許容されるか」ということになってくると思います。

仕事がなくなり、行き先を失った下人が、追い詰められた状況でも罪を犯すことを躊躇い、迷っているところで、他人を顧みず自分のためだけに行動する老婆に遭遇します。
そんな老婆の行動を見て「なぜ自分は自分の欲求を我慢しようとしていたのだろう」と馬鹿らしくなったはずです。

「あの人も同じようなことをしているのだから他人の物を奪っても構わない」

「自分だけじゃなくて他の人もやっている」

「追い詰められ、どうしようもなかったのだから仕方がない」

下人の行動を肯定する言い訳はいくらでも出てきますが、下人の行動を咎めるのは本音を言うと難しいところがあると思います。他責的な思考は我々の誰しもが持っているものです。
「理性」によって自分を律するのは本当に難しいことです。『羅生門』を読んで改めて考えさせられました。

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