間違えてしまいがちな、謝罪のあり方
1.謝罪の形骸化
テレビやネットといったメディアで謝罪に関するものを目にしなかった日がないくらい、世間は謝罪を求める時代となりました。
2019年度は数え切れないほどの不祥事や不適切発言とそれに対する謝罪がありました。
そして昨日、岡村隆史のオールナイトニッポン内でも謝罪がありました。
「これ2時間はきついぞ…」と思うような流れが冒頭から続くなか、36分経ったところで相方の矢部さんが登場し、そのまま放送を終えました。
私も騒動の経緯を全て知っているわけではないですし、さまざまな議論や2人に対する意見はネットをみたほうが参考になるので個人的な意見は控えます。
ですが、今回の謝罪も最近の謝罪のトレンドに近いと私は感じました。
そこで今回は、私の抱いている下記2つの違和感について、自戒のために考えてみたいと思います。
1.謝罪を求めている方は謝罪されたからといって許すことはほとんどないのでは?
2.謝罪している方も何に対して謝罪しているかわからなくなっているのでは?
2.謝罪の基本性質は、表面的解決
1.に関して、謝罪は表面的解決でしかないといえます。
「具体⇄抽象」トレーニング(細谷功著)によると、問題解決のパターンは表面的解決、机上の解決、根本的解決の3つで、前の2つは何も意味がないと述べています。
表面的解決は、そのまま対応するパターンで、今回のように不快な思いをさせてしまった、だから謝罪するといったケースです。お客さんに「値下げしろ!」といわれてそのまま値下げするとか。
机上の解決は、精神論的なパターンで、今回岡村さんは「反省して今日のラジオを一生懸命やる」と述べていましたが、これがそのケースです。値下げを要求してきた客の不満が店員の接客サービスにあったときに、「誠心誠意、真心こめた接客を心掛けます!」というもの。
根本的解決は、机上の解決からさらに具体的な打ち手を導くもので、今回はそこまでたどり着けていなかったように見受けられました。接客サービスへの不満をさらに要素分解して導かれた根本的な課題に対し、挨拶や言葉遣いの教育や一人当たりの接客時間や案内フローの見直しに着手する、といった形。
2.に関しては、自己弁護や自分が犯したことに対する後悔にしか意識が向いていないということが考えられます。
つまり、謝罪のベクトルが自分に向いてしまっていて、相手に向いていないということです。(こちらのツイートを参考にお話ししています。)
謝罪している人をみていると、たまに誤っているというよりは落ち込んでいる場合がありますが、これは自分が悪いことをしてしまったという後悔ばかりに意識が向いているためです。
これは自分もよく陥ってしまうので非常に共感しました。
子どもによくあるケースだと、遊んでてガラスを割ってしまったときの「ガラス割っちゃったどうしよう…」は謝罪のベクトルが自分に向いている状態です。相手にとって、修理費用や直す手間がかかることや危険な思いや怪我をさせてしまったといったものが、謝罪のベクトルが相手に向いている状態だといえます。
3.謝罪のベクトルが自分に向かないように
ラジオを聞いていて、話しているのが自分なのではないかと錯覚するほどの共感性羞恥を覚えました。
在宅ワークのため実家にいるのですが、しょっちゅう母を怒らせてしまっています。
そのたびに「また怒らせちゃった…」と反省するのですが、それは反省じゃなくて自分に対する後悔でしかなかったと気がつきました。
たとえば、母が大事にとっておいたプリンを食べてしまって怒らせてしまった場合、母がそのプリンを食べることをどれだけ楽しみにしていたか、ということを真っ先に考えなければなりません。
もし起こっている様子が激しいものだとすれば、プリンにかける想いが計り知れないものだったということも想像がつきますし、口で謝ったり代替品を買いに行ったところで許してもらえないということは感覚的にもわかると思います。
そうなったときに「じゃあどうすればいいんだよ…」となってしまいがちですが、そこで表面的な解決や机上の解決に走ってしまうと、火に油を注ぐことになって解決から遠ざかってしまうでしょう。
これは、当人にとってセンシティブな部分であればあるほど根本的な問題の要素は複雑化し、解決は難しくなるといえます。
簡単なことではありませんが、なにか過ちを犯してしまったときには、謝罪自体がそもそも表面的な解決方法でしかないという前提を踏まえ、謝罪のベクトルを相手に向けた上で次にとるべき行動を冷静に考え実行することを心掛けます。
評論家気取りも気持ち悪いのでこのへんでおわります。
ワーワー言うとります、お時間です、さようなら。
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