ページのむこう

ネットサーフィンングとは、自分が気になることを調べることだという。

サーフィンというと、波に乗っているようで、ずっと調子の良い状態がつづかのようだ。

探したいものが次から次へと来るみたいに。

でも、僕はどちらかともっと地味なものだと思う。

自分が気になるものを調べるとき、"それ”がなかなか見つからなくて、

いろんなサイトを開けては、「ないなー」と思いながら、最初の検索画面に戻る。そして次のサイトを探す。やっぱりない。

そんな時は、キーワードを変えて、また検索する。

ようやく見つけたそのサイト。欲しい情報だけど、結構前の情報だったりする。例えば、5年前とか。

そこで感じる。ようやく見つけたこのページ、今も誰か見てるのだろうか。それとも、僕が久しぶりに開いたのか。

そこには画面しかないが、もしかしたら、誰かが今も読んでいるのかもしれない。

そう思うと、その人は今、このページをどんな状況で読んでいるのだろうか。何を考えているのだろうか。何がきっかけで見つけたのか。

ディスプレイに映るその画面には、そのことを知るヒントすらない。

気配を感じさせない、そのメディア。

誰が見てるかなんて分からない、そんなことはわかっているが、

想像してみるのは面白い。


ウェブサイトという仮想空間。でも、確実にそこにある。

そして、誰かが来るのを待っている。

訪れた人たちは、それぞれのコンテクスト(文脈)をもち、

そのサイトをそれぞれの文脈の中で消化していく。

そんな行為が大規模に長期間にわたって交差していく、

ウェブサイトとはそんなものなのかもしれない。


そんなことを言えば、本もそうなのかもしれない。

それぞれの文脈の中で消化されていくメディア(読み物)

しかし、ウェブサイトと違うのは、その稀有さだ。

本は世界中で複製され、図書館を除いては、複数人が同時に所有している。

ウェブサイトは違う。

存在はオリジンただ一つだけだ。

世界中でいつでもアクセスできるが、一つしか存在しない。


自分が見ているものは、どこかで誰かが見てるかもしれない。

それを思うと、どこかで繋がっているのかとすら思う。






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