講演のための思考メモ(18)新人フリーランスの戦略と挑戦
始まったフリーランス生活
2016年12月30日に、6年勤めた旅行会社を退職した。晴れてフリーランスライターにはなったものの、仕事は何も決まっていなかった。しかし不安よりも、ようやく獲得した自由に心を踊らせていた。実家でのんびりと正月を過ごしながら、今後の計画を練ることにした。
クラウドソーシングで案件を獲得する方法もあるが、SEO記事は書きたくないし、「文字単価1円」みたいな世界も疲弊する。そういう仕事をするためにフリーランスになったわけではない。ぼくは真にやりがいを持てるインタビュー記事やエッセイをメディアで書きたかった。
とはいえ、ライターは無数にいる。大した実績もなく、無名に過ぎないぼくが今メディアに売り込んだところで、インパクトのある仕事はできないだろう。替えの効く存在にはなりたくなかった。
そこで、自己投資をすることにした。自分が本当にやりたいことを、自分のお金でやって、世の中に提示しよう。ぼくはこういうことをして、こういう記事を書く人間ですよ、ということを知ってもらおう。「面白いライターが現れたな」と思ってもらえたら、大きな仕事をゲットできるかもしれない。
それには大胆なチャレンジをする必要があった。
東海道五十三次を歩く
大学時代からの「いつかやりたいこと」のひとつに、「東海道五十三次を歩いて東京から京都まで行ってみる」というものがあった。司馬遼太郎の歴史小説を読むなかで、「ほんの200年前までは、みんな江戸から歩いて京都へ行ってたんだな〜」という当たり前の事実に驚かされた。500kmはあるだろう。
「自分にも歩けるだろうか? 歩いて京都まで行ったら、何日かかるんだろうか?」
かつて、「自転車で高校まで行けるのだろうか?」と感じたときと同じ種類の、素朴な疑問だった。無性にやってみたくなった。
今こそ実現すべきタイミングだと思い、古本集めが趣味の父に、何気なく聞いてみた。
「今度、東海道を歩くつもりなんだけど、何か関連書籍持ってたりする?」
しばらくして書斎から戻ってきた父が、重たそうな段ボール箱を抱えていた。
「まさかそれ全部、東海道の本?」
まさに、自分が求めていた資料が、箱にびっしりと埋まっていた。
「なんでこんなに・・・?」
「歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』が昔から好きでね、頭の中で歩いた気になって楽しんでるんだよ」
父の「回り道」が、ぼくの「回り道」につながる瞬間だった。何か偶然という言葉では片付けられないものを感じた。東海道に呼ばれている。
「クラフトビール 東海道五十三注ぎ」
東海道五十三次の「五十三」とは、東京と京都の間にある、宿場の数を意味している。日本橋を出ると、1. 品川宿、2. 川崎宿、3. 神奈川宿、4. 保土ヶ谷宿、・・・と計53箇所の宿場町が連なっている。これらの宿場町に泊まりながら、昔の旅人は歩いたのである。
ぼくはGoogle Mapsで各宿場間の距離を測りながら、旅のルートを考え、所要日数を計算した。1日25km前後を歩けば、18日程度のようだ。こうして妄想を膨らませる段階から楽しくて仕方なかった。
そして2017年1月2日、旅の決意をFacebookに投稿した。
すると、友人のちなさんが、旅の出発前に素敵なイラストを描いてプレゼントしてくれた。
前職の同期からは、こんなコメントをもらった。
また別の友人からも連絡があった。
実際、どちらのお宅にも泊まらせていただけた。
やりたいことを宣言すると、不思議な偶然が次々と起こるようになる。なんでも発信してみるものだ。思わぬ人が、思わぬ形で力になってくれるかもしれない。最初の一歩は自分にしか踏み出せないのだが、一歩踏み出しさえすれば、そこから先は自分の頭で考えられる領域を遥かに超えた、大きな流れに乗ることができる。
父が段ボール箱いっぱいの本を抱えてきたあの瞬間から、もう「流れ」が始まっていることを直感した。
好きなことが、誰かのためになる
2017年1月10日、「クラフトビール 東海道五十三注ぎ」の旅が始まった。ぼくはリュックひとつ背負って、東海道の起点「東京・日本橋」をスタートした。目指すは京都・三条大橋。ゴールまでに53杯のクラフトビールを飲むのだ。
初日は品川宿、川崎宿を経由し29km歩いて横浜まで。2日目で茅ヶ崎、3日目で小田原、そして4日目で箱根の芦ノ湖に着いた。箱根の山道には、江戸時代に築かれた石畳の道が残り、実に風情があった。
朝から夕方まで平均28kmを歩き、銭湯で汗を流し、クラフトビールを味わう日々。足はボロボロになるし、毎日疲れも取れない。それでも、とにかく楽しかった。日常を忘れ、仕事を忘れ、京都というただ一点を目指して歩く日々には、大いなる開放感があった。
印象深い出会いも忘れられない。箱根を下り、静岡県の三島を歩いていると、突然見知らぬ男性に呼び止められた。
「すいません、中村さんですよね?」
「え?」
「ブログで中村さんのことを知り、どうしてもお会いしたくて、車で東海道を走りながら、探していました」
「えー!? どうしてまた」
「実は、ぼくのおばあちゃんが難病を患っていて、『もし元気だったら何がしたい?』と聞いたら、『東海道五十三次を歩きたい』って言ったんです。だから、ぼくが代わりに東海道五十三次を歩いて、写真を見せてあげたら、少しでも行ったような気持ちになれるんじゃないかと思って。
それで今朝、Twitterで『東海道五十三次』と検索したら、中村さんのブログにたどり着きました。ちょうど今日箱根を出られて、お昼に三嶋大社の写真を上げられていたので、そろそろこの辺りを通るんじゃないかと思って、やってきました。握手してください!あと、少しだけ一緒に歩いてもいいですか?」
「・・・もちろん!」
こんな好き勝手やっている旅が、まさか誰かのためになっているなんて。数百メートルだけだったが、話しながら一緒に歩いた。
「実際に歩いている人に会えて、お話を聞けて、本当に良かったです!ぼくも東海道を歩けるように頑張ります!これ、ビールばかりじゃ辛いと思って、富士山の水を買ってきました!ぜひ飲んでください!」
旅の7日目、静岡駅近くのクラフトビール店に入ったときは、
「あー!五十三次さんだ!」と店員さんに叫ばれた。
お客さんが一斉にぼくのほうを見てきて、「あ~、『あの旅』の。彼がそうなのか」という声が小さく聞こえた。
この旅をスタートした際、あるクラフトビールメディアがぼくのブログを取り上げて、「ユニークな企画だ」と紹介してくれたのだ。地方ではクラフトビール好きの輪は狭く、噂はすぐに広まるらしい。
「君、もう静岡では有名人だよ?」
湯船に浸かる人々の声に西日本の方言が聞こえてきたとき、「随分遠くまで来たのだな」と旅情を感じたものだった。
名古屋では浪人時代の友人の家に泊まらせてもらい、三重県四日市では、2010年にバルセロナのサグラダファミリア前で話しかけて知り合った友人のご実家があり、そのお母様にお世話になった。これらもまた、人生の「回り道」がもたらした幸運だった。
翌日の関市では、露天風呂で出会った地元の方が「中村さんの挑戦に感動しました!」とお菓子や飲み物を買ってくれた。
20日目、ついに京都・三条大橋にゴールし、53杯目のビールで友人と乾杯。その後、さらに2日かけて大阪まで歩いた。
帰路は新幹線でたったの2時間半。昔の人の凄さ、文明の進歩の凄さ、両方を感じた。
やりたいことを全力でやって、いろんな人との出会いがあり、楽しい毎日だった。心の底から「生きている」と感じた。
生まれ始めた「差別化の芽」
旅から帰宅した翌週、ラジオに出演することになった。
「本日のゲストは、東京から大阪まで東海道を徒歩で旅して、東京に戻られたばかりの中村洋太さんで〜す!」
旅をした背景や、印象的なエピソード、ライターとして目指すあり方などを話すことができた。番組に呼んでくれたラジオパーソナリティーの方は、会社員時代のぼくが、インタビュー活動に目覚めたきっかけの女性だった。これまで打ったバラバラの点が、独自の線を結び始めていた。
そういうわけでフリーランスになった2017年1月は、丸々1ヶ月間、ただ歩いたのみで1円も稼げなかった。貯金が減っていくだけだった。
しかし、自己投資と歩き続けた日々の発信からは、まだ小さいものの確実に、ライターとしての「差別化の芽」が出始めていた。
(つづく)
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