bibouroku#9
大学近くに借りていた部屋を出払って7ヶ月経つ。コンクリート打ちっぱなしの白い壁とグレーのグラデーションはさながら白日のMVみたいだったなと、六畳一間の隙間風とストーブを仲良くさせながら3年間を8畳の箱に詰めて。
大学入学三日前。いまだに根強い人気を持つスプラトゥーンが面白いよと、発売から2年弱だったが興味のあるタイトルもなかったので持ち帰った。ハマった。入学式で既に三徹目に突入していた。そのまま1年間を費やし、プレイ時間1800時間とイカ友達が数人、引き換えに成績表は真っ白だった。
今年から社会の役に立つことをするぞ!と意気込んで入ったのは農の世界。周りを見渡せば田んぼと畑と70歳くらいのおじいちゃんとおばあちゃんしかいないというのが農業のいいところだ。
農の世界はひたすら無目的。自然と触れることがどういうことか、体験しなければわからないことがたくさんある。刈った草は、4日でもとどおりだ。
人の世界はひたすら目的的。ひたすら意義を見出そうとして、勝手に追い込まれて、わからなくなるばかりで、ぐちゃぐちゃだ。花はいつでも、咲いているのに。
自然と関わることは現代でもとても有意義だと思う。自然は常に私たちのそばに居るし、何もしない。私たちはそれを頭でわかって、体で感じで、足で会話する当たり前のことから離れすぎた気がする。無駄なことはしない、お金にならないことはしない、面倒なことは時間をかけない、自分のことは自分でする。人が人の世界で生きるには少し窮屈じゃないか。そう感じている人は実は意外といるんじゃないか、そう私は考えたいのだと、改めて感じている。
12月20日から3日間、北九州市は戸畑を練り歩いていた間、下関にいる友達の家に泊まった。そいつは私とはかけ離れた大学生で、学業は上々、部活は卓球に励み、飲み会は週に2回、働く意味に疑問を感じながらしっかりと内定をゲットしていた。4月から働くまでは飲み会と卒論に追われる生活をしている。
飲み会から帰ってきた24時過ぎ。私は友達の結婚式のダイジェストを作っていて、人の幸せな写真とコブクロの「永遠に共に」と3時間にらめっこをしていた。電気を消してうつつになりながらも、たわいも無い話をしながらぽつんと「新卒一括採用なんておかしいよ」と言った。久しぶりに人と会話をした気がした。
誰もが思うところがあるはずだと、そう思ってはいながらも言葉で聞くと重みが違う。それがどんな形をしていようが、人生はそういうもんなんだと思う反面、本音に任せたいのがもう反面。どんな選択をしても時間の使い方だけど、もう少し納得感が欲しい、もう少し希望に満ちていたい、そんなことを叫ぶ場所を持てる時代になったのが令和のはずだと、信じたい人たちがいる。
先日1歳3ヶ月の元気いっぱいな赤ん坊と遊ぶ機会があった。兎にも角にも走り回ってモノにさわってまた走って4人の大人に邪魔されて、短い手足と持ち前のエネルギーでぶんぶんあばれ回ってまた走りまわって。22歳には眩しすぎた。そのエネルギーどこからくるの?その興味はどこからくるの?なんで炊飯器開けたりしめたりするの?世界はどんなふうに見えているの?なんて考えながら。
彼女が20歳の時私は42歳(生きていれば)。西暦2043年。どんな時代だろう。SDGsの2030年課題は既に終了。失われた世代は60年を突破かな?そしたら1980年だからむしろ若いんじゃないか。夏は今より暑いかな?学校は今より友達作りやすいかな?就職活動なんて言わないで、「何しよっかな〜」なんて20年前と同じ気持ちでいられるかな?私は今、何をすべきかな?なんて考えた。
気候変動やスタグフレーション、全体的貧困や非正規雇用、そして自死立。20年後の彼らから「何してたんだろうね」と失望されない社会を作りたい。
それは私たち20代が、アフガニスタンで戦争をしていて、失われた世代の真っ只中だと言われ、幸福度は日増しに下落、豪雨や猛暑と戦い、自己責任論の風に吹かれ、自死率トップの時代を生きているからこそ、そう思う気持ちは強い。
特別なことは何もない。少し昔の、机につきながら少し感じた違和感を思い出すことさえできれば。エネルギーに溢れた泉が少しづつ閉じていった違和感を。あなたの一生懸命さに取って代わった観念を感じることさえできれば。それだけで社会は少しだけ、良くなる。私はそう信じる。
自然はそんな私たちをどう見ているのだろう。たぶん、見てなんかいなくて、ただ私たちが立っているだけ。奮い立つか哀しく立つかなんて、自然から見れば雨の日か晴れの日かくらい当たり前のことだろう。世界のどこかは晴れていて、雨でいて、雪でいて、砂嵐で、大火事。私たちは今、自然に学ばなければいけないと、そう思う。人生ってたぶん、地球より大きくてとっても尊い。
自分に嘘をつかなかった結果、絶賛就活中。この時期に。卒論も、単位も残ってるのに。器用にできる器量はありながら不器用に生きる。みんなが器用に生きるなら、私は不器用に。クリスマスに聴いた”麦”君の歌はとっても不器用に光り輝いていたから。ならばもっと泥臭くてガタガタした不器用さで生きていきたい。
そしていつかぐちゃぐちゃの、きっと彼岸花みたいな色をした、水分をたくさん含んだサラサラした私が救ってくれるはず。
そしたらいつか、きっと明度が高くて青色の、ガラスのようなしっとりした、懐かしいあなたと出逢うかも。
未来のために、いま頑張ろう。
ぜひサポートをお願いします!いただいたサポートの分はnoteに掲載する記事の内容に還元いたします!