繋がって、溺れて、調和し、循環する
色んなリラックス動画を眺めながら、色んなことを感じて、考える。一体僕はどうなれば良いのだろう。幸せになれるのだろう。何を目指しているのだろう。
星空や森、海、熱帯魚の動画を観ていると、確かに、そういった奇跡のように美しい光や音、形に、僕の身体が、少なくとも何億年のスケールに遡る遠く深いところから感応しているのが分かる。
星空なら、たぶん、今、観ているのとほぼ同じ見え方の光の雲や粒のパターンに心惹かれるように、自分の遺伝子はできてしまっているのだろう。
鮮やかな色の熱帯魚がパートナーを見つけるように、渡り鳥が星空から方角を知るように、何万年と続く個々のライフサイクルにおいて参照すべき世界の意味の断片が、たまたま今、生きている生き物の一つである自分にも組み込まれている。
身体から先験的な感応を引き起こすものの洪水を浴びながら、じゃあ、自分は何を求め、どうなって行くのだろうと考えるのだけれども、例えば、自分好みの魅力的な異性と結ばれることが全てのような気はしないし、子孫を残すことだけでもない気がする。むしろそれらも含めた生きることそのものの総体という感じがする。
組み込まれて、繋がって、溺れて、調和し、循環することが、ただただ、長い歴史の中で遺伝子に組み込まれていって、そういった総体にシンクロすることが、あえて言葉にしようとすると行き着く目的なのではないか、と思う。
せわしくて、油断すればどこまでも詰まらなくなりうる日常の中で、自分の身体が感応するフォームの一端に出会うこと、そういった瞬間をかけがえのないものとして味わい、その先になるべきものになるべくしてなること、そういった、生き物としての本分は忘れないように日々を過ごして行きたいなあと思います。
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