「時」について;雨の日の店番(バイト)
静かです。普段なら夜でも割と来るお客さん、いつもの1/5も来ていません。
今日は夜勤3連勤の2日目。
夜勤の日はたっぷり5, 6時間は本を読むため、仕事のせいというよりは読書で神経が疲れ、2日目以降はヤバいくらい身体が重くなります。
本を読む気になれなくて、30分ゲーム動画の自然の風景をボーッと見て、それからいつもより多めに掃除、疲れたら動画、また掃除と今、4巡目くらい。
ここ数日のお気に入りは、開拓時代の雰囲気を残すアメリカが舞台のRed Dead Redemption 2。2018年10月発売らしいです。ちなみにゲーム自体はしたことがありません。
旅をしている気分になる。ゲーム動画なのになんでこんなに感動するんやろう。実際行って歩いたら、もっと感動するのかな・・。
動画を見て、掃除してと繰り返しているうちにだんだん元気が出てきました。
そうそう、最近、「自然」なら美しいのかというと、そうとは限らないことに気づきました。先日、たまたま爆撃で亡くなった仲間の死体を写して怒り狂う人の動画を見てしまいましたが、人の身体は生きて動いていれば美しく思うことがあるのだけれど、焼け焦げたり、切断されたりして原形を留めていない遺体となると、当然かもしれないけど、嫌悪感と恐怖が胸の底から込み上げてくる。
進化の過程を経て今に至っているはずの僕の認知能力だって、そういった自分と同じ種の人体の損傷や、本人や周りの悲痛な声や、病気に感染したことを思わせる皮膚の映像といったことは避けるようにできているはずで、すると、自然が美しいと言ってられるのは、自然のうちでも心地良いもの、心惹かれるものだけを選択して選んでいるから美しいと思うに過ぎないのかも知れない。
危険や恐怖だって人の生の半分以上は占めているはずだから、自然のうちかなりの部分は、美しいとは思えないようにできているのかもしれない。
じゃあ、美しいと思う風景とか、色とか、形とか、匂いとかには、何があるんだろう?
単純に子孫を残すために魅力があると感じる異性の匂いや異性らしい振る舞いを心地良く思うというのはあまり比率としては多くない気がする。一方で、何の意義があるのか瞬時には分からないような山の斜面に映える草や木の緑や水の輝きを特に美しいと思うのは、本当になんでなんだろうと思って、ここ数日ずっと考えていました。
ふと、思い当たることがありました。
山にせよ、水の流れにせよ、草、木、花、生き物にせよ、数万年は下らない時間を経て形成されてきたと身体が感じるものは、美しいと感じるようにできているのではないだろうか?
自然の圧倒的なエネルギーの循環を起因として、とてつもなく長い時や過程を踏まえた結晶を感じさせられるような色や形といった刺激に、生き物としての自分は心惹かれるようにできているのではないか・・。
博物館で、ある禅宗の僧侶が描いた絵に目が釘付けになってやたら心が惹かれるのを不思議に思ったことがありますが、今、思えば、あの絵はちゃんと、写真ではなかなか出逢わないくらい意識的に、その風景に至る何万年ものプロセスを踏まえた場面が描かれていたように思います。
どんな仕事について、どんな生き方をして、何をするにも、周りの人に例えば数万年以上にわたるプロセスを感じさせられるような立ち居振る舞い、表情、声色、諸々を体現できるようになれれば、自分でもすごく充足できるだろうし、心地良かろうし、周りの人も幸せに思えたりするのかもしれない、などと今、思っています。
こういった人間的完成に至る過程こそが、夏目漱石がちらっとどこかで書いていた、「道」というのかも知れません。
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