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臨死体験者が語るメッセージを頭で受け止めるとこうなる

知識と体験の埋められない差

相変わらず人の意識や自己認識に関わる本を読んでます。
最近思うのは、スピリチュアルに寄ったメッセージを発信する方々は、日常生活を送る中で実際のところ何を感じているんだろう?ということです。
そこで気になって読んでみたのが、この書籍。

もしここが天国だったら? ― あなたを制限する信念から自由になり、本当の自分を生きる
アニータ・ムアジャーニ (著)

著者は末期癌の昏睡状態から復帰した臨死体験者です。

スピリチュアルな情報を発信する側も、体験で何を得たところで人と人とのあいだで現代を生きることには変わりないはず。
そのあたりの心境を詳しく知りたい人におすすめです。

大前提・身体を使って相互認識で生きている

特に参考になったのがchapter8、エゴと気付きの話でした。
エゴとは自尊心、利己的な思い、恐れといった自分の思考や感情で、ネガティブで厄介なものと捉えられがち。
それらに振り回されず、否定せず受け入れましょう、というメッセージはよくあるものです。

ただ著者は、そもそもこの物質世界で生きていくなら、識別のためにエゴが必要だと説きます。

確かに、人の認識って相対的なもので、ただひとつを見てそれが何か分かるわけじゃない。
明るさを知っているから暗さが分かるし、誰かを天才と言うのは凡人と呼ばれる人が存在しているから。失敗があるから成功もあるし、楽は苦があるから感じられる。
わざわざ意識していなくても、毎日ごく自然に、対比で認識しながら生活しているはずです。

脳、身体を持って生きているうちは相対的にしか見られないし、意識の焦点も懐中電灯のようにどこか一ヶ所しか当てられない。
でも人は極限状態のなかで、相対的な見方から外れて一気に全体に触れ、「ひとつである」「分離はない、普段は境界を引いているだけ」とダイレクトに知るのでしょう、たぶん。

色が分離できないように、全体と個人も分離はできない。
境界が薄れるという話は、左脳の機能を一部失ってその後復帰した神経科学者も語っています。

ただその世界観を身体で過ごす毎日に丸ごと持ってきても、まあ当然引き継げないんだと思う。
著者も、健康オタク気味の知人につられて再び病を恐れた経験や、講演で聴衆の反応を気にしてしまったエピソードを語り、とても人間味があります。

どんな奇跡的悟り体験が起ころうと、その後も身体と共に生きるしかない。
何か変わるとすれば、自分が自分の観察を頻繁に繰り返すことで、人間同士の悶着が減るくらいでしょうか。
この観察自体に取り組む人が少ないのか、世間では問題が絶えないけど。

エゴと気付きの出力調整ダイヤル

臨死体験した著者曰く、誰にでもエゴと気付きのダイヤルがそれぞれ1つずつあるという。

私たちは成長するにつれ、してはいけないこと、〜するべきという社会通念を自然吸収してしまい、ほとんどの人が自己愛や自己探求をいつの間にか抑え込んでいる状態です。
世の中そういうもんだろうっていう諦観とか、忖度とか、確かにありますね。
そうして自己愛や観察・探求する意欲、つまり気付きのダイヤルを下げる方向に回してしまうそうです。

気付きもなくエゴが全開だといわゆる自己中で利己的。両ダイヤルを下げると自己肯定感が低くなったり、自己犠牲の心で尽くし心身ともに病みかねない。

どちらのダイヤルが大事かではなく、どちらも必要なので調節が肝心なのです。

理想はエゴのダイヤルをある程度上げつつ(でないと逆にこの世で生き辛く困難?)気付きもきっちり上げておく、と・・・・・・
人間として生きている以上、これは延々と続く調節なんでしょうか・・・・・・

まぁとりあえず、気付きが低くエゴ全振りみたいな人がいたら、自分勝手はやめろ!ではなく、対話を心がけた方が良さそうです。

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