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ピナ・バウシュ版「春の祭典」2024

先日、ピナ・バウシュカンパニーのダンス舞台を観に行きました。

私にとって、初の生ピナ作品鑑賞。
18年ぶりの来日らしい。
『春の祭典』は、うっすら動画(*動画は、Staatsballett Berlinというバレエカンパニーが上演したもの)のようなイメージあるのみで、およそ無知のまま劇場国際フォーラムへ。

約1500席が連日ほぼ満席!?
コンテンポラリーダンスって、どういう人が観に来るんだろう?

例えば、バレエでも、フラメンコ公演でも、客席には業界の人が多数見らる。
けれど、コンテンポラリーって?
実際には、踊りの方もいたけれど、第一印象として何よりも一般の方が多いと感じた。(そんなにコンテンポラリーダンスって認知度高かったの?ピナ・バウシュだから?)
個性的、洗練され姿勢が美しいお客様が多い雰囲気でした。

そこから怒涛の鑑賞。
第1部:低位置でのスローーーな動き、さすがの1曲目と、砂で床に大きな輪を描く解釈の難しい2曲目。
途中30分休憩を挟んで、つづく第2部。
『春の祭典』は、圧巻。
とにかく素晴らしかった。

そもそも、黒人系ダンサーたちで構成されていることも知らなかった。
皆動きが秀逸。
しかもバレエ的な振付もこなす…
けれども、あきらかにクラシックダンサーではない。

何かわからないバックグラウンドのようなものを想像させるダンサーたち。
動きに、あえて舞踊的洗練を織り交ぜないようにしている(?)というアカデミックな意図。
なんなんだ〜〜これは。
原始的な動きの追求?
とにかく脅威の身体能力で、踊りまくる。
床は、「大地の表現」ということだと思うのですが、全面砂っていうか土。
30分休憩の間に、大量のスタッフが、舞台転換を客席に公開しながら作業していた意味がわかった。

終演後、プログラムを読んで知る驚愕のプロジェクト。

今回の公演は、アフリカ13カ国から集められた、多様な出自を持つダンサーたちが、訓練を積んで出演。

ピナ・バウシュ財団の目的は、現在&次世代がピナの作品を経験できるように、機会を創出すること。

様々な国の新世代のダンサーやダンスカンパニーと協働している。
ここでの経験は、ピナ・メンバーにとっても、他国のダンサーにとっても、関係者全員にとって素晴らしい経験となる。

私の頭の中に、衝撃が走る。
フラメンコの世界の中で、自分の小さな舞台づくりにもがいている日々に、ヒントというか、未来を感じたような気がしました。
フラメンコは、民族音楽舞踊です。
このアートに長年取組んできましたが、モヤモヤしながらずっと目の前の創作に没頭してきました。

けれど、このアフリカのセネガルにあるダンス教育センター(エコール・デ・サーブ)が、アフリカを超え、多くのダンサーにとって重要な役割を果たし続けた結果、このような『協働』の機会が生まれたのです。

「春の祭典」は、これまでピナ・バウシュカンパニーの他に、パリ・オペラ座バレエや、イングリッシュ・ナショナルバレエなどが上演してきたそうです。
プロのクラッシックバレエ団の次に、アフリカの伝統舞踊・アフリカンコンテンポラリーダンス、アーバンダンス、ヒップホップ、バレエなどのダンサーたちが、協働し上演。

私は、ダンスは、マニアックな世界だとずっと思ってきたので、舞台創作に光が見えたような気がしました。

そしてピナさんが残した貴重な一節を発見。生前何度も繰り返していたとプログラムにありました。

I'm  not  interested in how people move but what moves them.

「人々がどのように動くのかではなく、なにによって突き動かされているのかに興味がある」


深い…
うすうす感じていたけれども、「踊る」ということは、他のあらゆることと同じようにまずは技術を身につけはするけれども、その後が肝心。
本質的にはその人が動く原動力にフォーカスするということなのだと改めて感じました。

これまで作品継承は、動きや振付にフォーカスすることが当然と考えていました。
今回、ここで知ったのは、それを生み出すダンサー個人に注目するという別の概念。

それぞれ違った資質や背景のダンサーたちによって、同じ作品を上演し続けることは、大変な道のりだと思うけれども、だからこそ面白いのかとも感じた。
これは、創作にとって、もっとも重要な考え方の一つだと思いました。


ここで、最後にあらためてピナさんのプロフィールをおさらいしておきます。

ピナ・バウシュ/Pina Bausch

1940年ドイツ・ゾーリンゲン生まれ。同ヴッパタールにて、2009年死去。エッセンのフォルクヴァング芸術学校にてクルト・ヨースに師事。
舞踊を学び、卓越したテクニックを身につけた。1973年にヴッパタール・バレエ団のディレクターとして就任、カンパニーを「ヴッパタール舞踊団」に改称し、以後芸術監督として新しい舞踊表現を展開する。
当初賛否両論がありながらも、この名称のもと、カンパニーは次第に国際的な認知を高めていった。詩的要素と日常的な要素を融合させ、世界のダンス・演劇の在り方に決定的な影響を与えた。舞踊会の国際的発展に決定的な影響を与えた。数多くの受賞歴を誇る、現代におけるの最も重要な舞踊家の一人である。

ここからは ウィキより
ドイツ表現主義舞踊の影響を色濃く受け継ぎ、演劇的手法を取り入れたピナ独自の舞踊芸術は演劇とダンスの融合とも言われ、彼女自身は「タンスシアター」と呼ぶ。
1983年フェデリコ・フェリーニ監督の映画 『そして船は行く』 に出演。1999年坂本龍一オペラLIFE』に出演。2002年にはペドロ・アルモドバル監督作品 『トーク・トゥ・ハー』の冒頭で代表作である「カフェ・ミュラー」を彼女自身が踊っている。
2009年6月30日、ガンの告知を受けた5日後に68歳で死去。日本では2008年4月2日の滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホールで、『フルムーン』を踊ったのが最後の公演であった。
2011年に彼女の死により制作が中断されていたドキュメンタリー映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』が公開された。

半世紀前の作品なのに、全く新しい。
日本とも関わりがあったのに、知らずにいた自分が残念です。

けれど、彼女の遺した作品をもっと観ていこうと思いました。
舞踊舞台の作品継承について、創作概念の原点に考えを巡らせる機会となりました。


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