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本気の大人の玩具屋台

ここまで見事に騙されたことが、果たして今まであっただろうか。浴槽の温湯に浮かんだそれらに、少し酒気に頬を火照らせながら、思わず無邪気に歓声を上げてはきらきらと目を見張ってしまった。



・・・

あの夏の驚きから、大分時間が経ってしまった。書きたいことがなかったわけではない。然しどうにも文章そのものを綴る気力が湧いて来なかった。けれどあの時の湧き上がるような、思わず子どものように飛び跳ねてしまった嬉しさと、それから「してやられた」というわずかばかりの悔しさは今も鮮明に覚えている。その日から、私の仕事用のカゴの中身が大分嵩を増してしまった。


「実は、ここに通い始めてから一年になるんです」


もう、そんなに経ったのか。時の流れが年々、歳を重ねるごとに速くなる。だから、その流れに慣れた時にはもう一回りその速さを増している。死ぬまで一年というリズムを掴むことは出来ないのだろう。


「それであの、お願いがありまして」


吉原からずっとずっと遠い場所。飛行機を使わなければ来られない距離を、一体何度往復してくれたのだろう。…そしてその、ぱっと数えられない回数すべて、一度も裸で向き合うことなくただ隣に座って酒を傾け続けてきたという、他に類を見ない距離感だった。


「……お風呂を、使わせてもらってもよろしいでしょうか」


使わせてもらってはいけない理由なんかあるものか。ここは風呂屋で、月日は一年も流れ、感謝や恩が山ほどある。二つ返事と共に立ち上がり、湯加減を確認する為湯槽に指先を浸そうとした時だった。


「お風呂だけ暗くすることは出来ますか?」


おふろだけ、くらく。繰り返すより早くその意を解して古びた天井を見上げる。部屋を半分に分かつ柱を境に、この部屋を照らす球は二つだけ。お風呂と部屋が隔たれていないこの空間が当たり前になってからどのくらいが経っただろうか。リモコンを押しても暗くなったりならなかったりする長い月日を重ねたこの部屋は、残念ながらどちらかだけを暗くする、なんて融通は効いてくれないのだった。


「すみません、そうするとこっちも暗くなっちゃって」


ボタンを押すと、何かを惜しむかのようにゆっくりと、部屋が陰を落としてゆく。ほんの少しだけ薄暗くなったその部屋で、彼は鞄から何やらごそごそと取り出した。


「それともう一つお願いがありまして。……あの、新品未開封なんですけど、これ」


これから風呂を使い、その新品未開封という何かを使いたいと言うのだから、選択肢は自ずと絞られる。一年を通してこういう話をほぼして来なかったのは彼が一際シャイだからなのだろう。少し口ごもったあと、もう一度、自らの言葉をなぞる様に言い直した。


「新品未開封の、玩具なんですけど……」


一瞬スキンの方かなとも思ったが、付け加えられた言葉に50:50だった残りが消えた。なるほど。筋を通すならば本来なら店のオプションを、なんて野暮なことは言わない。客が粋なら此方も粋で応えてなんぼ、ここは江戸から続く吉原。


「もちろんです」


大人の玩具箱。開けて何が飛び出すやら。百戦錬磨とは言わないが、大抵の玩具は試してきた。鬼でも蛇でも構わない、そう思いながら湯船に指先をそっと沈める。少し冷めてしまっただろうか。それとも夏だからやはりこのぬるめが心地よいだろうか。蛇口を捻るか否かを逡巡していたその時、箱が開いた気配に自然と視線を其方へ向けた瞬間。


「これです。ほら、新品未開封です」


棒状だったり、ぶるぶると震える模型だったり。想像したその全てが、その箱の中にはなかった。代わりに、今年もご時世柄見ることの叶わなかった夏の風物詩、色とりどりのゴム製の小さな球体といくつかの光るアヒル、そして虫眼鏡のような形をした薄ぺらいそれらが束になって入っていた。


「スーパーボール掬いセットです。……っえ、何を想像してたんですか?」


込み上げた笑いはすぐさま私の肩を震わせた。濡れた指もそのままに、冷たいタイルから絨毯の床へと足を戻しながら、私は文字通り飛び跳ねた。騙されてこんなに痛快なことってない。もう一度、「え、何を想像してたんですか?」と悪戯めいた言葉に、私は笑い以外の何も返せなかった。


……その後は。二人でせっせと湯にボールを浮かべ、アヒルのスイッチを入れてぴかぴかとさせ。本来泡立てる為の風呂桶を椀代わりに片手に携えて、利き手には汗ごとポイを握り締め。待つ側はストゼロ片手にじっと行先を見詰める、大人の本気のスーパーボール掬い大会が始まった。吉原の小さな一室が、この時ばかりは大きな大きな祭りの屋台となったのだ。


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