私は発達障害という個性を持って生まれてきた、いわゆる天才
私は一時期自分が典型的な発達障害だと思い、何やらほっとしつつ、違和感を持った経験を持つ。
生来より思い悩んできた自分の生きづらさの原因がようやく理解できたはずなのに、そのことに素直に納得できなかったのだ。
そして発達障害について自分なりに思いめぐらせるうちに、障害とカテゴライズされているもののつまるところは個性の一種ではないだろうかと考えられるようになった。
今回の私の書く内容はきっとたくさんの人にお叱りをいただくのだろうと思います。でも私自身がいわゆる発達障害に組み分けされているようなので今回は勇気を出して書こうと思います。
つまるところ、ハリーポッターは”グリフィンドール”、私は”ADHD(発達障害)”に、そう組み分け帽子に選ばれただけだったのです。
そしてそのことには生まれてきた理由など大切なことが内包されているのです。
そこに愛はあるのか?
人は一人一人違うのが当たり前であることからも、どうか自分が自分以外の誰かに組み分けされたものによって思い煩わないでほしいのです。
どうか特性、個性としてむしろそのことを楽しんでください。
「そんなに簡単に気持ちを切り替えられないでしょ!」
「周りから孤立する気持ちがあなたにわかるの!?」
「楽しい??生まれて一度もそんなこと思えなかったわよ!」
わかります、私がそうでしたからわかりますよ。
私も何十年も意固地になって自ら心の扉をそれはもう固く硬く閉ざしていたので、理解できるのです。そして私の場合はそれはもう最悪で、すべてをあきらめていました、幼子のように自分の人生に拗ねていたのです。
でもある時、そんな私でも気づけたのです、だからもうこうして自分の思いを書くしかないではないですか?
私が何故そのことに気づけたのか、それは私のパートナーがとっても個性的であったためです。
きっと病院の偉い先生に診断していただけば、あなたのパートナーは、重度の自閉スペクトラム症です、そういわれるでしょう。
「だから、何?」
私は私のパートナーの専門家なので、はっきりとわかるのです。
すべてはパートナーの生まれ持った個性であり、それらのすべてを私は愛しているのです。
だからもう誰であろうとも、私や私のパートナーをカテゴライズすることは不可能なのです。
カテゴリー分けすることが生き甲斐の人たちの言うこと
私からすれば、あなたは”ASD”、”ADHD”ですと、そう言う人々こそ発達障害なのだろうと思います。
わざわざ分けて考える必要のないことにいちいち興味関心を惹かれてカテゴリー分けするのが好きなのでしょうから、そうさせてあげればよいのです。
こんなことはちょっと考えればわかることであり、よくわからない小難しい単語などを並べずとも、
「あなたの特性はすばらしい!」
「あなたは個性的よ、結婚したいくらいだわ!」
そう言ってハグすればよいだけなのに、それはもう何年もかけてネチネチと、こういうタイプは空気が読めないのでASD、この人は多動傾向ADHD。
その人がなぜそう生まれついたのか、きっとそのことに大きな意味があるに違いないと、そのことに思いが至らないのはどういうわけなのでしょう?
そのような人々のほうが、余程正常性を欠いているように思うのです。
私が思うにおそらくなのですが、他人に自己投影することで、自分自身を確認する延長線上として、自分以外を評価するという行為に及んでいるのだろうと思います。
つまるところカテゴリー分けする側の人々も、自分がわからずに思い悩んでいるのでしょう。
もちろんどちらがどうという議論のためにこのような表現を用いているわけではありませんし、極端な特性や個性という言葉だけで片付けられないことも理解しています。
でもなんだかこの行き違いは悲しいじゃないですか。
だからあえてこの項目を書きました。
話の流れ上、このような内容になったことをどうかお許しください。
惹かれ合う者同士
最後に大切な話をしたいのです。
ひょっとしたらこちらを今読んでくださっている方の中に、ご家族や親しい知人の中に、ひょっとしたら発達障害ではないかと気にかけている存在がいらっしゃるようでしたらどうか聞いてください。
いわゆる発達障害と疑われる人々同士、近く惹かれあっている場合が非常に多く、そのことによってお互いが思い煩うケースが多いように思います。
ですからどうかその方を抱きしめてあげてください。
発達障害かもしれないその方や、そのことに思い煩っているあなた自身のためにもそうしてあげてください。
言葉は必要ありません、どうせ人と人は理解しあえません。
先ほどから申し上げている通り、発達障害とはただの言葉であり、どこかの誰かが作ったカテゴリー分けのためのものです。
私たちの人生において、必要だからそのように生まれついているのです。
だからどうかそのような外向きの意識にあなたの大切な心を引きずられませんよう、より生きずらさを感じることのないよう、そのことを切に願います。
***
かつて、そして今現在、天才と称されている人々の多くは総じて変わり者と言われていました。
つまり発達障害だったのではないかと思うのです。
一般的な人々と唯一違ったのは、自らそのことを受け入れ、自らの特性や個性を尊重した結果、天才と呼ばれただけなのです。
つまりは誰もがそうなれるのです、自分を赦し受け入れさえすれば。
繰り返しとなりますが、人はみな個性的なのです、だから無理に分けて理解しようとする必要はないのです。
「なんだって!?全人類発達障害だったの!?」
「それはなんて素晴らしいことなんだ!!」
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
今回の記事の内容において、私の未熟な表現によって誤解などが生まれないかを案じております。
どうか皆様のあたたかいお心遣いにすがる思いです。
タイトルイラスト
こじょりん(小城徹也)さんよりおかりしています。
ありがとうございます。
著者プロフィール
私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。