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数字に置き換えられず目に見えないもの

生き甲斐は自分が他の誰かや何かのためになっているという実感、つまりやりがい。

そのため一番解りやすいのが数字。

偏差値、テストの点、時給、年収、業績、イイネの数、フォロワー数、チャンネル登録者数、再生数。

それらのすべてが一見するだけではわからない数字に置き換えられたもの。
このような数字に一喜一憂、数字に踊らされる人たち。

でもそれも致し方のないこと、誰もが生きる上でやりがい、ひいては生き甲斐を求めさ迷っているのだから。

そうしてさ迷っているうち、何かしらの数を持っている人が偉い人、信用できる人、そんな思い違いを抱くようになる。

でも数は死んだらそれまで、では生きる内に積み重ねた道程、背中は?

イキイキと生きるその姿はみんなの記憶に鮮明に焼き付いて残り続ける。

結局は行動。

数のために行動するのか、情熱のためか。

情熱は目に見えない、そしていつも目に見えないなにかが数に変換される。

情熱の結果が数になっただけだ。

はじめは周りからそう促され誰もが大きな偉業を思い描く、でも自分の後々のやりがいは大抵小さな思い付きから始まる。

小さなことからコツコツと、それらは何でもいい。

観葉植物に水をやる。
好きな紅茶を飲む。
朝の散歩。
知人への挨拶。

誰もがすでにやっていること。

誰もがすでにやりがいのなかを生きている。

気忙しい世の中において、生き甲斐へと変換するのが難しくなっているだけなのだ。

最初と最後は必ず数以外で始まり終わる。

「おぎゃー!」

「なんグラムの元気な赤ちゃんです」

「何時何分、ご臨終です」

そうして最後には感謝の念だけが残る。

自らを驕り昂ることなかれ。

結局人は一人で生まれ、最後は一人で死ぬ定め。

これが意味するのは、結局私たちは満たされることのない孤独の中にあるということ。

でもそのことをどうとらえるかは私たち自身。


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