見出し画像

詫び寂び幽玄の世界

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

誰にも勝たず、誰にも負けず

平々凡々、日和見な生き方、でしょうか?

決して挑戦しないわけでもないほどに

無理をせず焦らず、いつもマイペース

そんな風に、私はなりたい

御霊相当にとれる

精神レベルや魂の次元、心の豊かさ具合により、受け取り方が変わる。

人はなぜ自分のことを棚に上げて人のことばかり言うのか。

そもそも人はなぜ噓をつくのか。

そうした言動は、人格が自分中心の人に起こる心の動きに他ならない。

『御霊相当にとれる』の言葉の通り、人は精神レベルや魂の次元、心の豊かさ具合により、世界の見え方が違う、つまり自分の人格相当の情報を知覚し受け取るということだ。

自分の価値観に照らし合わせ、自分が認知できない理解できない事柄に対し不安感が出てきて否定的な言動になるだけ。

周りに嘘をついてでも、少しでも自分を大きく見せるため、変に思われないように外面を取り繕う。

そのような人々の存在に惑わされなくていい。

所詮、自分には関係ない、ぜんぶ自分次第。

デジタル遮断

情報を意図的にシャットアウトすることで、今自分が目の前で取り組んでいる仕事だったり人間関係に真摯に向き合えるようになり、自己満足度があがる。

食事は腹八分目が良いとされます。それは情報とて同じでしょう。今自分が必要としていない情報は断捨離しましょう。どうせ大半の情報は、我欲を満たすための自己顕示類であり自分とは無関係なものです。

学生時代を思い出してみてください。クラスの構ってちゃんが、自分が孤立したくないがために、周りにあることないこと吹聴していた筈。今ネットに溢れる情報の大半がその有象無象です。相手にするだけ時間の無駄です。

分をわきまえるとは、身の程を知り、自分がやるべきことにのみ注力することであり、自分の決めつけや思い込みによって、なんでもかんでも首を突っ込み、右往左往することではない。

詫び寂びを心得、実際にそのように生きることが大切です。

自覚聖知

知識と理解は別のこと。
知っているのと分かっているのとでは、大きな隔たりがある。
知識はあくまでも誰かから聞いた話や本で得た情報であり、理解は己の体験から腑に落ちて分かることだからだ。
実際に自分で体験もせず、知っているかのように振舞うのは無知で愚かな行い。

夢を叶えようというそもそもの幻想。
理想の自分にならなければならないという幻覚。

周りは夢を聞いてきたり、それがあたかも素晴らしいことのように思える。
夢は叶える必要のない、ただの原動力。

恋や地位や名声や栄誉、全部後からわかる。

言葉ではなく行動で語ろう。

『自覚聖知』とは、自ら体験し悟ること。

そんな自分の背に感応した人々とのみ繋がればいい。

周りとの関係性はそうして築けばいいのだ。

人を批判する暇な人間にならなくていい、周りの人々を褒めているうちに時間は流れる。

何かになろうとするのではなく、いつも自分でいよう。
成長とは自分を高めることではなく、変化し続ける自分や周りを受け入れるための拡張である。

いつも本当にありがとう。 これからも書くね。