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僕らは永遠の中二病

一体どうしてだろう、我々は自分たちの可能性や世界について、根拠なき期待を持ち日々を生きている部分が少なからずある。

かくいう私もその一人だ。

きっと目に見えない何かによって、そうなるのではないかという予見が自分の中にあり続けるからなのだろうと内省する。

もし仮に目の前の現実を簡単に書き換えられる方法があるとしたら?

なんだかちょっとだけ話を聞いてみたいと思えませんか?

今日はそんな少しいつもよりも頭の痛くなる話。

それではさっそく始めましょう。

俯瞰的メタ認知

「あなたは今どこにいて、何を意識して、何をしていますか?」

こう質問をしたとき、あなたは今きっとこう思ったはずです。

『私はいま家のソファに座って、スマホでこの怪しげなnoteを見ている………』と。

もうすでに多くの人がお気づきの通り、この行為は『自分で自分にスポットを当てた、意識した』ということです。その結果、自分の軸に気づき、地に足をつける行為に繋がったともいえます。

『私は今、この世界で生きている』と、自覚し己が整っている状態。
『この世界に私は存在している』と認識できている感覚。

この認識を昨今では、メタ認知と呼んでいます。けれど、今更仰々しい名前(メタ認知)などと付けずとも、私たちはごく自然に日頃自分を俯瞰し、周りとの関係性とバランスをとってきました。

緊張した際、手のひらに「人」という字を書いて飲み込むなんてよく言われるのも、おそらくメタ認知に関係した昔の人の知恵でしょう。

しかしながら、今から20年ほど前頃よりインターネットが到来、その後急速に情報の氾濫が起こったことで、多くの人々が情報の大海原で自分という小舟が今どこを彷徨っているのかわからなくなったのです。

事実、今日もSNSは自分探しに真っ最中な人々で溢れています。
あるいは、過度な競争社会を意識しすぎるあまり、自分と無関係なことに必死になってしまっています。

それはまるで、現実で起きているはずなのに寝ているように生きることと同じであり、決められた映画のシーンが繰り返されているようなもの。あまつさえ、自分が映画の中の登場人物であることにも気づけない憐れな脇役。

それならばこそ、自分を見失うことで人生が不安定になるのだとわかっているのであれば、常日頃から自分を俯瞰する感覚を養えば恐れや不安感から脱却できることになります。

このことに気づくことができれば、明晰夢のように夢の中で夢であると自覚し自由に行動できるようになる。自分が映画の主人公である自覚すればこそ、アドリブでもっと良い演技をしてやろうとなるのです。

そのためにも健康的な食事、お風呂にゆっくり浸かってくつろげる時間、適度の運動、ヨガや瞑想、神社へのお参り、お墓参り、心落ち着けるゆとりあるスケジュール、というような生活習慣を心がけるなど対策方法はいくらでもあります。

これらは何もむつかしいことではなく、周りに流されず自分らしく生きるための創意工夫であるといえるでしょう。日々の喧騒から自分を解き放ち、自分を癒し、自分と向き合う時間を作ってあげる、自分を甘やかしてあげる。

ただそれだけの単純で簡単なことです。
もっぱら今この瞬間からでもはじめられること。
つまり、映画のフィルムのコマを自在に書き換えるのなんて、造作もないことであると気づくことです。

自分が上手に演じるほど、開幕時は演者であったはずなのに、いつの間にか周りは巻き込むまれ脚本や演出がどんどん書き換えられていくからです。

はじめは誰もがただの登場人物にすぎない、でも実際は自分こそがこの世界の監督であると自覚するのです。この気づきこそが、自分の軸に整った状態、本来の自分の状態。

外向きの意識と内向きの意識が丁度良い塩梅のどちらでもない状態。
ある意味、自分のことも周りもどうでもいい状態。
心と体の均衡がとれ一心同体のとき。

この自分本来の状態のときにだけ、現実創造の力が働くのです。それでは、この項の最後にお手を拝借。左右の手のひらを合わせて、合掌。

重なり合った掌の間に何が見えますか? 何が感じられますか?

あたかもそうであるかのように振舞い続けろ

さて、それでは実際に現実を書き換えるフェーズへと移行しましょう。

まず重要なポイント、絶対に世界に踊らされるな、自ら踊れ。

もし、どうしても叶えたい夢があるのならば、あたかもその夢が叶ったかのように振舞い続けなさい。大切なのは思うだけではなく、実際にどんな小さなことからでもいいのでコツコツやってみることです。

周りからどんなに馬鹿にされようが、すぐに成果が出なくてもそんなことは関係ありません。一度はじめたならば、ここからはもう根競べです。

その夢が大きければ大きいほど、叶うまで時間や労力がかかるかもしれません。けれども、途上であきらめないことで、やがて兆しが必ず見えてくる。

むしろ、絶体絶命な時ほど、もうダメだと思った時ほど、いっきに満願成就するチャンスだったりします。と、同時に多くの人の夢が叶わない理由がここにある。

九分九厘の人はもう駄目だとなったその瞬間に、夢をあきらめて別の現実へと歩み始めるからです。古今東西、よく言われる通り、ピンチこそがチャンスなのです。

そしておそらくここが最も重要なポイントで、自分が目の当たりにしている世界とは、自分の精神、つまり心の現世であるということ。

要約するに現実創造とは何なのかという答えは、この世は自分の心が作り出す世界であるということ。

であればこそ、夢が叶う目前にやってくるピンチというのは、自分の心が作り出す投影、叶った夢に付加価値をもたらすための演出に過ぎない。あくまでもこの世界を作り出し監督しているのは、自分の心なのだということ。

そのためにこそ、自分が憧れる存在であったり、豪邸だったり、役職だったり、お金や物が目に見える形で存在していて、理由もなくそれらに惹かれるのです。

「全部後からわかる」という言葉の通り、何度も大きな夢を叶えるうちに、ようやくそのことに気づくことができる。何故なら、自分の精神(心)や意識は目に見えないからです。

夢を成就するためには自分だけの力では絶対に無理で、必ず他力が必要となります、その力こそを『縁』と呼びます。
勿論、『縁起』は目に見えません。

人は目に見えないものは、何度か繰り返し経験しないと信じずらい習性を持ちます。しかしながら、幾度となく多様な体験を重ねるにつれ、むしろ確信として強く信じられるようになるのです。

その時ようやくこう思えるのです、「ご縁に感謝します」と。
やがて成功体験が習慣化するころには、自分を信じられるようになり、自信をもってより大きな夢へと羽ばたけるのです。

ただし、この項の最後に注意点。
自分がそのことに気付いているということを周りに言う必要はないということ。自分の周りの人々はこれからも周りの人という役割を演じて自分の周りにいてくれる存在です。

必ずしもその人々に、わざわざ自分の正体を明かす意味はありません。
これまで通り自分は自分という役割を演じ、周りと協調しながら段々と自分本来の人生へとフェードアウトすることが重要です。

決して世に背を向けて山奥で仙人のような世捨て人同然の暮らしをしたり、性根の弱い気づかない人々を騙して小銭を稼いだりしないことです。

「お蔭さまで、気づけました」と、心の中で感謝するだけで十分なのです。

あなたのお陰様で利他ってます

そして、最後に絶対に勘違いしないでいただきたいのは、必ずしも自分が望む現実を引き寄せられるのではないということです。不幸や悲しいことのない人生でありたいとか、いいことばかり起こる人生の方法論ではない。

周りを意のままにコントロールできるわけではなく、あくまでも自分の心変わりによって現実が再構築されていくということ。実際に思い描くままに成功体験ができるわけではなく、その方法やきっかけや出来事などは全部自分以外にゆだねるべきことなのです。

なんだ目の前の現実を好きにできないのであればそれじゃ意味ない、と思うのであればもうこの話はここまでです。

結局のところ何が言いたいのかというと、思いのままの人生を好き勝手に歩むために、自分の人生が存在しているのではないということ。

メタ認知によって、自分の人生を俯瞰し続けた先、つまり目の前の現実は自分で創造しているにすぎないと気づくことにほかなりません。

整った自分の状態で、本来の自分の人生を生きたとき、何を感じどう思うのか。その経験や体験こそが自分の人生の醍醐味であり、自分という意識の正体だからです。

であればこそ、病める時も健やかなるときも、雨の日も風の日も、いい日もそうでない日も、老いも若きも男も女も森羅万象のすべてが尊く素晴らしいものなのです。

そうしてお蔭さまに気づき、利他の精神で生きることが、結局自分にとっての良き人生ということなのです。

なんとまぁ、きっと期待外れだったかと存じます。

けれどそれも致し方のないこと、慎ましく自分らしくいられるという小さな幸せの中で生きられることこそ、何よりも素晴らしいことなのです。

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なすの
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。