自分以外はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)
ある日不意に思う、自分以外の人々は本当に自分と同じように生きる存在なのでしょうか。
ひょっとしたら、みんなと同じだと思いたい己の願望による、有象無象、その他大勢、一般大衆、民草たちと同じ凡人だと思い込みたいがための自己欺瞞的な幻想なのではないか。
むしろ特別なんて面倒くさいだけだから。
独りぼっちなんてつまらないし、寂しいから。
そしておそらく、自分が見ている世界とまた別のだれかが見ている世界は同じようでいて全く違っているのではないかということ。
同じ世界に生きていると互いに思い違っているか、あるいは、オンラインゲームのようにメタ空間で間接的に繋がっていることをあたかも現実のコミュニケーションのように感じているだけなのか。
そんなことを思うにつけ、この世に魂なきものは存在しない。だが、心無いものは存在する、とそう結論付けたい新たな願望に苛まれる。
さしずめ精神や心を育むことを忘れた現代人は圏外のモバイル端末のようなもの。とはいえガラパゴス化するのは、自分のせいでも他の誰かのせいでもない。世界の仕組み、時代のうねりには誰も逆らえないだけ。
ただ梵我一如、世界の理と己の理は同一であるというだけのことだ。
南無 妙法蓮華経
世界の美しさに気づくには、井の中の蛙であってはならない。
井の中とは蛙である自分の頭の中の世界である。
大自然や人類の遺産、芸術作品などに触れ畏怖することで、自分の小ささに気付ける。大きな存在の中で生かされているという実感に触れることができる。心の目で俯瞰し、見える世界が広がればこそわかる。畏敬の念を抱くことができる。
あまねく人たちの感覚や感情は同じではない。そもそもメタ認知力は個人差が著しく、認識している世界が違うという基本のキを理解できていない人が多いからこそ、気づいた人から素直に自分を生き始める必要がある。
そうしてだんだんと本来の自分を生きる人が増えるほどにその輪は広がり、互助の関係はより強固になっていく。
妙法蓮華経とは、生きとし生けるものを救い導き、帰依します。目に見えるものすべて、自分が愛するためにある。すべては赦すためにある。という精神の境地に達すること。
あまねく人々がその心の境地に達したとき、弥勒の世になるといわれる所以。もし本当に、そうなれたならNPCからの卒業、ゲームクリアといってもよいだろう。