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書くことは玉ねぎの皮むきと似ている

かれこれ半年以上、書いている。
三日坊主の自分からすればよく続いている方だ。

最初は別の媒体で“ちょっと気になるブログ”というタイトルのブログを書いていた。タイトルの通り、日常で気になった発言や人物に関してあれこれ考えたり文句を書き連ねていた。文章で説明するとすごくロクでもないことをしていたように思う。


時間が有り余ってしかたない方は読んでみてほしい。

“ちょっと気になるブログ”を経て、noteにたどり着いた。ここで少し変化があらわれる。

前述のブログが他者についてのみ書かれているのに対して、ここでは出来事を介して見えた自分の内面について書くことが多くなっているのだ。

そして記事を重ねるたびに少しずつ少しずつ、自分の核心部分に近いづいていっている気がする。


親の離婚の話なんて特にそうで、僕のパーソナルな部分が大っぴらになっている。前のブログで僕は、「ブログを読まれることはケツをみられるぐらい恥ずかしい」と書いたことがあるが、noteに関してはケツを通り越して内視鏡で体内を覗かれているような思いだ。

僕にとって「書く」ことは、自分が世界をどう見ているかを表現することとしてスタートした。
それが今では、自分そのものを表現するために「書く」をいとなんでいる。

まるで玉ねぎの皮を一枚一枚むいていくように、僕は「書く」度に自分の核心に迫っていく。丁寧に少しずつ。どれも自分が見たり聞いたり感じた経験なのだ。それらを本当にちょっとずつ剥いていって、柔らかくて繊細な部分へ。書くたびに、玉ねぎを剥くように、少しずつ真ん中に近づいている。

今この瞬間にも僕は世界を経験して、その分玉ねぎには新しい皮が生まれる。だからまっすぐまっすぐ最短距離で近づけるわけではなく、三歩進んで二歩下がるような地道な作業なのかもしれない。それでも僕は近づいているのだ。

もし、ど真ん中を表現することができたら、僕は「書く」ことをやめるだろうか。


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