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写真と短歌と、文章を書くこと

感情、情景、匂い、温度、手触り、空気感、光。言語化できないものに何とか形を与えようとするものたち。そういうものたちのことを、私は愛してやまない。


2020年、コロナ禍直前の冬にカメラを始めようと思い立った。大阪の八百富写真機店で悩んだ末に購入したのはNikonFM2。フィルムカメラだ。

「ファーストカメラがフィルム?酔狂すぎん?」

同じくカメラを趣味としている友人にはこう言われた。たしかに狂っている。しかしその選択は間違っていなかったと、今でもそう思っている。


初めてのカメラを選ぶ時、必ず聞かれるのは「何を撮りたいか」ということだ。なぜなら、撮りたいものによって選ぶべき機体やレンズは変わってくるから。


例えば、幼い息子の日常を美しく残しておきたいならフルサイズのミラーレスと単焦点レンズが良い。

旅先で風景を切り取りたいなら軽さと防塵防水を備えた広角レンズのコンパクトカメラだろう、というふうに。


私が切り取りたかったのは空気感とか光とかそういうものだった。だからフィルムカメラだったのだ。



大好きな写真家・濱田英明さんの記事にこんな言葉があった。私がフィルムカメラに向かった理由が、見事に言語化されている。

例えば、この写真のように「逆光に照らされて舞う埃」という現象は、おそらく誰もが人生のなかで似たような光景を見てきたはずですが、それを一言で表す言葉は多分まだありません。でも、写真ならたった一枚で捉えて誰かに共有することができるんですね。さらに、その現象に付随する感情や記憶も写真を通して感じられるかもしれないのです。

濱田英明「写真は言葉」より




短歌と写真は似ていると、常々感じている。短歌は世界でいちばん短い詩であり、ゆえに「切り取る」ことを常に意識する必要がある。しかし、素晴らしい短歌から紡ぎ出される手触りは、たった31文字とは思えないくらい豊かだ。

日常のふとした瞬間とか、日記に残すまでもない出来事とか、いつも考えているけど論文にするほどでもない思想とか、小さな確固たるこだわりとか。

そういうものを受け止めるジャストサイズの器が短歌だと思う。生きている途中で拾う小さな宝物たちをしまうガラスの小箱のように、それらはきらめく。

だから私は短歌を読む時、宝石を眺めるような気持ちになる。いろんな角度から眺め、色合いの変化に驚き、時には口に含んで転がして楽しむのだ。自分でも短歌をつくってみるけれど、なかなかうまくできない。いつかどこかに発表できれば、とは考えている。でも結局最後まで自分で楽しむだけかもしれない。


写真も短歌も、私の中では「言語化できない瞬間を切り取るもの」というカテゴリーに入る。つまり私にとってこれらは、同じ営みなのである。

そして文章を書くこともまた同じカテゴリーなのだと、最近ようやく気がついた。私が残したいのはいつも、日常の何気ない、けれども尊くていつまでも大切に取っておきたい、そんな瞬間なのだ。それは普遍的で、しかし同時に自分にしか切り取れない唯一無二の瞬間。


今日の木漏れ日


自分にしか切り取れない瞬間を、二度と戻らない時間を閉じ込めたくて、私は今日もシャッターを切る。言葉を紡ぐ。


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