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写真は言葉

新しい言葉を知ったとき見える世界が変わることってありますよね。例えば、イヌイットは4つも「雪」を表す言葉を持っているそうです(諸説あり)。その言葉を知れば彼らと同じ物が見えるようになるかもしれません。つまり、言葉は世界に対する視野を広げ解像度を上げてくれるものなんですね。

また、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』では、時間の概念を持たない異星人の言語を理解した主人公がそれと同じ能力を得るようになります(ややネタバレ🙏)。つまり、時間さえ超えて世界を認識することができるかもしれない、言葉はそんな力を秘めているんですね。

反対に言えば、その言葉を理解する人にしか見えない世界があるということですよね。日本には「木洩れ陽」が、海の向こうには「ペトリコール」があるように、文化や国によってさまざまな現象(というよりただそこにあるものごと)を認知する言葉はたくさんあります。言語学ではこういうのを「サピア=ウォーフの仮説」なんて呼ぶそうです(たぶん)。言葉を知ることで、それまで見えていなかったものが見えるようになんですね。

さて、ここでようやく「写真は言葉」というタイトルに戻ります。写真を撮る人ならきっとこの感覚が分かるかもしれません。つまり「写真にする」時、無意識に普段とはものの見方が変わりませんか? カメラを持っていると日常では見過ごしてしまうような風景やものごとに気づけたりするし、たとえ異なる言語を持つ同士でも、たった一枚の写真を通して同じ感覚や感情を理解することができたりしますよね。

例えば、この写真のように「逆光に照らされて舞う埃」という現象は、おそらく誰もが人生のなかで似たような光景を見てきたはずですが、それを一言で表す言葉は多分まだありません。でも、写真ならたった一枚で捉えて誰かに共有することができるんですね。さらに、その現象に付随する感情や記憶も写真を通して感じられるかもしれないのです。

インターネットやSNSが発達した今、毎日無数の「写真」が共有されています。私たちは、たとえ遠くに住んでいても、それを通して当たり前のようにコミュニケーションをとっていますよね。つまり現代社会において「写真」はもはや異なる言語さえ飛び越えて「新しい言葉」として機能しているんですね。いわば共通言語とも言えるかもしれません。写真は言葉、そう理解することで撮るという行為の意味の捉え方や向き合い方が変わるかもしれません。

言葉にできないからこそ写真を撮っている、ほとんどの場合はそうではないでしょうか。自分もその一人です。だから言葉にする必要なんてない、という人もいると思います。もちろん、それでよいのだと思います。だとしても、それは裏を返すと、その人にとって写真は言葉と等価であるという証明にもなりえるでしょう。写真と言葉が互いを置き換え合えるものなら、その人が紡ぐ言葉はその人がとらえる写真と同じものを表すはず。ゆえに、何をどう見ているかが片方だけではなくどちらからも浮き上がるなら、その人は自身にしかできないことをしているのだと思います。

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