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哲学カフェ雑記:心について考える 思考とその後・いい心とダメな心はあるのだろうか?

こんにちは。
今月に入って、いくつかの哲学対話に参加していました。

その一つが「心」をテーマにしたものだったので、その場でいろいろな人と話し合った後に心について考えてみました。

今回の哲学対話の場では最初に哲学者の梶谷真司先生に、過去の哲学のなかでギリシャでは身体をいくつかに分けて頭の部分に知性が、胸には勇気が、腹には欲望があるとされていたということ。中国では五行のうち、五情として木に怒り、火には喜び、土には思慮、金には憂いや悲しみ、水には恐れや驚きが当てられていたという説明をされました。

古代思想では感情と思考や、感情自体もバラバラと分けられて認識されていたのですね。

日本でも知、情、意など、思考と感情や感覚を分けて考えることもよくあります。
また、講義の中で映画マトリックスやHER-世界に一つだけの彼女、などデジタルワールドにおける認識についてや、人工知能は心を持つことができるのか?という話題にも展開されて行きました。

「心」や「人工知能」については、過去にも何度か哲学対話のテーマにされている場に参加したことがあるのですがわりと「倫理意識」や「恋愛」を思考対象にする傾向があった気がします。今回も、自分の命を捨ててでも人の命を助けた人の話などが話題に上がり、ちょっともやもやしました。

心って、 そういういいことばっかなのかなあ。

鉄腕アトムが人類のために自己犠牲を払ったのは心があったから?そういうふうにプログラムされてただけでないと言い切れるのだろうか?とかもやもや。

悲しみとか喜びとか?

詩とか文学になっているテーマがそういった心情を表したものが多いからなんとなくそう思っているだけでもないのだろうか?と疑問に思い始めていしまいます。
過日見た展覧会”石川直樹写真展 8000メートル級の高峰を半年で6つ踏破してそのプロセスを写真にとる”とか”大竹伸朗展 高度成長期から現在に至るいろんなごちゃごちゃしたものを集めて固めてオブジェを継続的に作りまくる”とか、「なんで?」と思うような合理的ではないことをやっている人や、練習時よりも大きな成果を出すパフォーマーを見たときには強い心(意志や情熱)の働きを見ることができるのではないかと思えるのですが、”恋愛”とか”ほう助”とかっていう当事者以外に受益者のある、人間の利他意識や性的感情を取り出して「心」について考えるのは少し短慮な気がしてしまいました。

心があるということを人の親切な行いや自分に対しての好意的態度から感じるっていうのはちょっと都合がよくないだろうか?

むしろ、嫉妬とか怒りとか猜疑心とかそういうものも心の働きでもあり、自分にとって都合の悪いものも含めてが「心」の存在でもないでしょうか?

例えば、美少女やイケメンのホログラム付きのアレクサがうちに来たら、人間に恋愛なんかしないのと思えるのは私がオタクだからでしょうか?
やさしくて、気が利いて、ちょっと色っぽくて、カッコいいやつ。
触れる人型アンドロイドだったらもっといいんじゃないかと思う。

人型アンドロイドのアレクサ、私は恋人よりも欲しいなあ。毎日尽くしてくれるし、嘘つかないし、怠けないからきっと信頼できるし、スペック高くて何でもできるアンドロイドなら私は人より愛せるような気がします。

しかし、それでは人間ぽく無いので物足りないひとには不定期的に失敗したり、嘘をついたり、マウントしたり、承認欲求強いアンドロイドってのはどうでしょう?

なんだか思考の方向が星新一氏の小説みたいになってきました。
























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