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叱られたい

年齢を重ねると、叱ってくれる人が少なくなる。それでも叱ってもらいたい。まだまだ勉強中の身ではあるけど、プロデュースをさせてもらっているとき、「それは言い過ぎじゃないですか」などと逆ギレしてくれないかなぁと、いつもワクワク(ビクビク?)している。ドMではない。あしからず...…笑

物腰はたぶん柔らかく、気が付けばしょうもない冗談ばかりを言っている自分だが、直感として感じたことのみを基本的には話している。そのたびに空気を読んでいると、伝えたいことが水で薄まってしまう。水彩画に例えるなら、絵の具そのものの色をまず伝えて、それを向こうの心の中で、自分にちょうどいい濃度に薄めて解釈(=希釈)してもらいたい。

ただし身内ではない他者との関わりのなかでは、なるべく一番薄い色から始めていくのが良いのだろう。それが距離感というものだ。未だに苦手だけど...…。

いつからか、直感でしかものごとを伝えられなくなった。それが相手の真意を突いているのか、まったく間違っているのかは、神のみぞ知るところ。あくまでも自分の判断だから。

黙ることも多くなったかもしれない。前述のようにストレートな表現しか出来ないので、それが正論責めや理詰めに捉えられたりして、揉めるのはお互い疲れるし、スムーズに明日を始めたい(始めてもらいたい)。

自分を少し装ってしまうときもある。でもそれも直感で装っていて、自分のなかでは嘘を付いているつもりはない。瞬間的に今は予防線を張るべきだと、頭の中が全会一致になっている。

大人なのに不機嫌になってしまいそうだな、だったら帰ろう、と思うときもよくある。ひとりで帰ればいい話だが、勝手にフェイドアウトするわけにも行かず、「みんな帰るよ!」と途端に大きな声を出す。万年学級委員の癖がいつまでも抜けない。

でもこれこそ直感だ。察するのだ。きっとみんなもこの一日のなかで、身体的&精神的に疲れてきた時間、そうだろう? 帰っておのおのの風呂に入ろう。なにげに僕の一番好きな行動は「早めの解散」かもしれない。その日を濃い一日にしたいから。最後に薄めたくないから。

つまるところ、直感とは結局は感情全体のことで、表層であり深層なのだな。真ん中はほとんどの場合、必要ない。人間、理性でものごとを判断しているようで、実はほぼすべて理性のふりをした感情で動いている。仕事もプライヴェートも。

理性とは将棋の持ち駒のようなもので。構築した論理が詰みかけたときに一旦再計算したり、良いと思い込んでしまっているアイデアを、翌日まで待たずにその場でクールダウン&方向転換させるときに使うもの。だから駒は早めに捕獲しておいた方がいい。

さぁ、お風呂にたどりついた。少しだけ入浴剤を入れて、なるべく心を無にする。いろいろ考えたりもするのだけど、どこにも着地はせず、頭の中を通過する。お風呂にいるときの頭は、一日のなかで一番のあまちゃんである。

お風呂の窓の外で、余所の子供が泣き喚いている声がする。少しだけ大人の声も聞こえる。ああ、叱られているなぁ(いいなぁ...…)。でも明日もその子供は同じことをしてしまうかもしれない。しょうがないよね、まだ成長曲線のほとんど水平な段階だもの。

子育てもそうだけど、できるなら先に行動で示したい。言葉を知らない動物のように。例えば鴨の親子。ほら、こうやって道を渡るんだよ。こうやって池に飛び込むんだよ。

でも人間は言葉の生き物だよな。思っているだけじゃなく、喋ったり電話したりメールしたりLINEしたり。「〜って思うよ」って書いてる時点で、もう思っているだけの状態ではなくて、伝えている。

他人の言うことやしていることが、まったく気にならない。そんな仏のようになれたらいいのだけど、なかなか難しい。言い過ぎた、言い足りなかったの毎日。それだけ今年は出会いが多かった。来年はもっと増えると思う。だからこのもどかしさも気持ちよく受け止めよう。

僕は時代と噛み合っていないよな。今はどちらかというと叱らない、干渉しない世の中。育てることを最初から諦めているから、今後さらに格差が広がっていく。ディスコミュニケーション礼賛。ツールや娯楽も増え、みんな自分を生きることに忙しくなった。

だからこそ、あえて飛び交う矢をかいくぐる歩兵になり(ときには射抜かれ)、叱られにいきたい。コロナ以降もリモートや、さらに今後はメタ領域も使えるだろう。実のところ、僕だけじゃなく誰もが、新しい「深いコミュニケーション」を模索している時代とも言える。

厳しい世界はしんどい。そもそも社会とは厳しい。耐えられる人と、そうでない人がいる。無理をすることはない。布団から片足を出して熱を逃すように、少しだけ社会の外にいても大丈夫。一部の国を除いて、この地球には最低限、優しい考え方や社会保障がある。

今のままがいい、何も変える必要はない、そういうときは、個人でも団体でも、運営者(=トップ)はいらないかもしれない。ちょうどいい感情、人材、ルーティンがあればいい。でも実際は、運営や管理をしていかないと、成長はおろか、今の状態も維持できない。

僕は圧倒的に変わり続けたい人間なのと、新しいことに挑戦していくことに、日々喜びを感じている。物心が付いたときから自己投資な毎日。でもやっぱりいたって不器用で、社会から逸脱したくなるときもなくはない。そろそろ現在の自分をバミッて、そこから動かないようにするべきかなと思うことも。それだって静止という名の行動だ(まぁ到底無理だわな)。

ことあるごとに結果を出し続けている人、いつも美味しい料理を提供できる人、半分無意識でも良い歌が歌える人、びっくりするくらい細かく機転が利く人、度を超えておっちょこちょいな人、酔うとどんどん攻撃的になる人、頑張っているのに空回りを続けている人、常に少しだけ寒いと感じている人、朝からお腹がモヤモヤしている人、片足どころか身体ぜんぶ社会から一旦おやすみしている人、今日もどこかで誰かが生きている。

赤ちゃんからご老人まで、本当はやっぱり認めてもらいたい。人間には3大欲求があるというけど、僕は4つだと思っている。食欲、睡眠欲、性欲(=恋愛欲?)、そして承認欲。どれも恥ずかしいことじゃない。

SNSのいいねボタンもいいけど、直接のやりとりで何かを褒めてもらえると、眠る前に絶対に1回思い出そうと思う。それで気持ちよく眠りたいなって。

でも実際は悲しいかな、寝入りばなによくマイルスデイビスの声が聞こえてくる。「You need to practice.」お前は今日ピアノを弾いたのか、何かひとつChord Progressionを開発したのか。ああ、ごめんなさい、zzz....…

眠るとき、みんなはどういう風に眠るだろう。今日はたっぷり寝るぞ。明日も早いなぁ。いい一日だった。最悪だった。明日から変わろう、などなど。

僕は無感情に近くなる。そしていつもパソコンをシャットダウンする心持ちになる。そのままにしておくような「スリープ状態」じゃない。眠るのではなく、一旦死ぬ。そしてまた明日生まれる。

僕らは自然とともに生きている。そして電気とも共に生きている。そのことを認めよう。ほとんどの人間は、考え方の半分がすっかり電脳化しているのだ。いっそ、人間とアンドロイドの中間でもいいではないか。死ぬまでの人生を、思い切り生きていられるなら。

今日は大晦日。2022年のうちに眠りに就きたい。起きたときは2023年だ。寝ているうちにバージョンアップを終えているのだ。最高だな。少しくらい半導体が足りなくたっていいんだ。おめでとうが言えれば。

マンスリーコラムは2023年1月からまたしばらくお休みします💤  今後再びマンスリーとして復活するのか、ランダムに書くのか、ずっと書かないのか、何も決めてません。ラジオ・K-mix(静岡FM)「ハットピンレディオ」ではほぼ毎週僕のトークが聴けるので、今後はそちらもぜひ !

毎回僕の長い自分語りにお付き合いいただきありがとうございました。短文だらけの世の中に反抗して、見出しやリンクも挟まず、いつもあえて長文にしていたところはあります。そういう機会に少しでも触れてもらいたかったのと、単に天邪鬼なんです。

写真はBLUE BOY 忘年会 2022.12.30 / 今回もボーカルの孝治は不在。

2022.12.31