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「学習する学校 子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する」第1章オリエンテーション【285】

 この書籍は、学校教育にはどのような問題があり、その背景と解決のために必要な考え方や実践について紹介されています。本書に書かれていることは、処方箋のような「こうすれば必ず解決する」というようなものではなく、問題を組織で解決するスタート地点である「問題を解決できる組織を作るために必要なマインドセット」を示してくれます。国や地域、通っている生徒とその保護者によって異なる学校の現状に合わせて対応するために、私たちが捨て去らなければいけない固定観念や身につけておくべきスキルなどが理解できます。全部で16章の構成となっており、800ページ以上にも及ぶこの書籍から学んだことがたくさんあったので、章ごとに重要だと思ったところを記事にしておきたいと思います。内容に興味を持たれた方は、ぜひ本書をお読みになって、いろんな方と議論するきっかけにしていただきたいと思います。

学校教育が求める「均一化」と多様化する「社会」

 私たちが今生きている社会は、政治・経済のグローバル化、加速する高度情報化などによって、未来を予測するのがとても難しい時代になっています。それとともに、労働者に求められるスキルもこれまで以上に高くなっています。

 時代の変化とともに、家庭のあり方や子どもも多様化し、片親世帯の子ども、心身に障害がある子ども、極貧状態の子ども、主要言語を話さない子どもがいる中で、それぞれの状況に配慮した教育も求められるようになってきました。また、政府は財政危機にも直面しており、教育への予算分配も十分にできていないという現状があります。

 その中で、学力テストを導入するなどの競争原理を取り入れることで、教育格差を縮めようとしました。そして学校は、「テストのための勉強」「テストのための授業」をする場所になってしまい、人としてのつながりや創造性が奪われてしまったと書かれています。

 テストのために勉強することは決して悪いことではありませんが、そのために長時間を費やしてしまうことで、子どもたちが社会に出たときに身につけておくべきようなスキルが疎かにされてしまいます。それは、自分の価値を認め、他者とつながることの喜び、人々が共同で支える社会をもっと良くしたいという貢献心などを養う機会から得られる人間としてのスキルです。
 やがて、学習は自分の地位や生活のためのものとなり、他者を思いやったり社会に目を向けることができなくなってしまい、最終的には社会全体にとってはマイナスの教育になってしまっているように感じますj。

3つのシステム(教室、学校、コミュニティー)

 学校は、保護者や地域と協力して教育活動を行う必要があります。お互いに認め合うことで、他の人からの認められているという安心感を持つことができ、自分でできることに取り組んだり協力することができます。
 本書では、お互いに認め合うために、教員・生徒・保護者の立場として必要な捉え方が書かれています。

 ここでは、「学校」という場所をどう考えれば良いかについて書かれていました。学校を社会システムとして、生徒にとっては「友人関係や社会的地位の源」であり、教職員にとっては「継続的な発達と訓練の源、そして職場」であるという、複雑な構造になっています。そのため、そういった考え方に基づき、学校は生徒のためだけではなく、教員や管理職の学びの場としての機能も必要であると書かれています。具体的には、生産的な話し合いの場として、生徒も含めた学校内外の人間がお互いに考えを出し合うことができるということです。

メンバーが「内に目を向ける時間」を

 学校の状況を改善するためには、政府や委員会の政策や管理職の規則を待つのではなく、生徒や教職員の考えや関わり方などに注目する必要があります。つまり、「内に目を向ける時間」の重要性について、本書では述べられています。

 学校内には「当然と思い込んでいる暗黙の事実」や「願望や期待」などを検討する時間を設け、それと同時に外部の組織とのつながりも維持しながら大きなコミュニティとしての「共有ビジョン」を明らかにすることが重要だとされています。

生産的でオープンな会話はしているか、自分の見解に固執して他人の声が聞こえなくなっていないか、問題を人のせいにしていないか、システム全体の観点から問題を見ているか、子どもたちの新しい未来のための取り組みに関心を向けているか、などについて内省することからスタートします。

銀行型教育

 この言葉の意味は、知識が体系化されておらずバラバラに生徒に与えていれば、生徒にどんどん溜め込まれていくという考え方です。子どもたちは、学校に入ると自身の持つ欲求や向上心とは関係のない新しい目標が与えられ、外発的動機づけが押し付けられる形で子どもたちに与えられます。

 子どもたちは、「教員を喜ばせ、宿題でよい点を取り、賞を取ったり表彰されたりし、ランキングで上位に入る」ことが学校での成功だと勘違いするようになるのです。もちろん、数値の目標は効果を測るためにはある程度必要ですが、その前提となる学習に関するビジョンがより重要であることを理解しなければいけません。

学習のディシプリン

 本書を通じて、「5つの学習のディシプリン」に基づいて学校の組織を形成することが述べられています。

・「自己マスタリー」「共有ビジョン」
  個人の願望または集合的な願望を明確にさせる
・「メンタル・モデル」「チーム学習」
  内省的思考や創造的な会話
・「システム思考」
  複雑さを認知し管理

産業化時代の教育システム

産業化時代に生まれた学校教育

「前かがみになりながら本や紙類がぎっしり詰まった鞄を背負って歩く姿」

 教員は、生徒に出される課題の全体を把握できていないことが多々あります。また、保護者自身が仕事からプレッシャーを感じているために、子どもの頃からプレッシャーやストレスと闘うトレーニングをしておくべきだと考え、それが間違っているのでないかと疑うこともないようです。

 そのような学習環境で学び、常に仕事のプレッシャーを感じている保護者を見て、小学校高学年になった子どもたちは「あんな親にはなりたくない」「学校はつまらない」と思うようになり、仲間との競争と自分自身の生き方を求めるジレンマの中で、内発的動機づけと自主的な関与が持たれないまま、社会に対してできる貢献が失われてしまいます。

 今から400年前の機械化時代では、組み立て作業ラインで画一化された生産物を生み出すという労働は非常に生産性が高く、正確な反復作業を繰り返すことができる労働者が求められていた時代にできたのが、今の学校教育制度だったのです。

 つまり、学校のカリキュラムが画一化され、時間割が細かく決まっているのは、産業化時代には非常に効果が高かったのです。さらに、できる子とそうでない子を分けるために導入されたテストが重視されるようになってからは、より学校が日常生活から引き離されることになりました。
 そして、テストが重視されるようになってからは、教員と子どもの関係も変化し、教員が権威的に教室を支配するようになってしまうようになりました。

 このように、子どもたちが自主的な学びができず、ストレスを感じやすい環境になってしまったのです。「ストレス下では、脳の動きが低下する」ことがすでに分かっており、もはや画一化された単純作業ができる労働者が求められていない現代で、どのような学校教育が必要なのかを考えていく必要があるのではないでしょうか。

 学校では、教員が求める期待に応えることが重視されるようになりました。間違った答えを避けたり、正しい答えがわかっている時に手を挙げるようなことをしていると、やがては、上司に対して意思表示をするのではなく、問題を静観しているのが賢明だと判断するようになります。この状態では、社会の問題点をみんなで考えるという機会は失われ、決定権を持っている人の狭い考え方のみで判断が下されることになります。
 本書では、このような問題点を明確にしつつ、「学校は『自分は一体何者か』『自分は何に情熱を注ぐのか』についての感覚を深く研ぎ澄ませる場」だと書かれています。学校で学ぶ中で、探究や振り返りのスキルを学ぶことが重要で、自分んがどれだけ利口なのかを印象付けることばかりに気を取られることの危険性を指摘しています。

産業化時代の「学習」についての考え方

 産業化時代には、子どもは欠陥品と捉えられ、学校の役割は子どもを管理することだと考えられていました。また、学習というのは自然発生的に起こるものであるにもかかわらず、学校では内容も順番も決められています。それについていけないと「欠陥品」としてみなされ、子どもたちに劣等感を持たせてしまいます。「欠陥品」という言葉こそ使わないものの、現在の教室での学習に何らかの支障をきたす場合、それは「学習障害」などと呼ばれることになります。しかし、よく考えてみると「今の教育のプロセスとその子の不適合」を示すだけであって、果たしてそれを障害というレッテルを貼ってしまって良いのかというところに疑問が残ります。ここで重要な指摘だと感じたのは、障害は教育プロセスの方にあるのではないかということです。

 そして、教室での学びが中心になってしまっている今の学習が、現実世界から離れてしまっているという側面や、できる子とできない子を分けるようなシステムが産業化時代から残され、現在話題になる学習に関する問題点が書かれていました。ピグマリオン効果としても有名なように、教室の中のレッテル貼りが子どもに与える影響は非常に大きいことがわかります。

産業化時代の「学校」についての考え方

 教員は学校という同じ現場で働きながら、これほどに個人主義的なものは見当たらないとされるぐらい孤立した状態で働いているそうです。学校は教員による子どもたちの管理が中心となっており、子どもたちの考えや意見を汲み取るような仕組みにはなっていません。また、銀行型教育で示されていたように、知識がバラバラな状態で教えられるために、関係性や全体像が見えにくい状態になっています。さらに、正解主義的な考えに基づく行動が求められ、複雑さや曖昧さを受け入れたり、批判的な考えを身につけることができなくなると書かれています。

 世の中には絶対的なものはなく、教員が出す知識であっても疑う余地があることを子どもたちが理解できているかどうかがとても重要なことです。答えが決まっていることを教えられても子どもにとっては退屈しかなく、一緒に考える楽しさを味わえると子どもたちも学ぶ意欲が掻き立てられると考えられます。

 そして、最も問題だと思ったことが「過度の競争」です。ある程度の競争は協同と共存することができるとされていますが、過度の競争は日本でも問題にされています。過度の競争は単なる勝ち負けという結果に終わるのではなく、その後の人生においても大きなストレスを感じ続けるとされています。ビジネスにおいては、社員同士の競り合いにエネルギーを費やすことになり本来の業務に支障を来たすと考えられています。また、激しい競争の結果、負けとなってしまった人は「負け組」というトラウマを抱えることになり、勝った人は勝った人で、自分がその後はさらに学んだり、社会貢献に力を注ぐのではなく、自分が優秀であることを周囲に示すことにエネルギーを注ぐ(自己防衛の定型化)と考えられています。これを報酬の処罰と呼んでいます。

産業化時代のモデルを乗り越える

 1990年代からテストブームが起き、子どもにとって本当に意味のあることよりも、教員中心の学習プロセスによって、他人の顔色をうかがう大人をたくさん生み出してしまったとされています。

 学校教育に求められるものは、「生涯に渡って学習し続けるための基礎を築き、よい高等学校に入学するカギは、学習目標をきちんと定め、自分の進度を自分で効果的に評価する能力」だと書かれています。
 90年代半ばのアメリカで起こった動きはその反対方向になってしまいました。画一的な管理のもとでの監視を強める教育でした。落ちこぼれ防止法から標準テストの導入による学校の序列化が行われることで、学力が高まるという結果が期待されました。結果的に、テスト結果は実際に向上したそうです。しかし、その副作用として、中等教育以降の進学率が向上したものの、進学先で学位を取得できたのはわずか35%しかいなかったそうです。つまり、標準テストで管理されている期間の学力は向上したものの、それ以降は学力面での課題が改善されず、むしろ中等教育以降で学習に困難を抱える生徒が増えたことを示しています。

 数値や目標による管理は、ビジネス界でも高い効果は得られていないにもかかわらず、同じような原理が教育界にも持ち込まれてしまったことで、子どもたちの学習意欲の低下や高得点を取るためだけのその場しのぎの詰め込み学習が蔓延してしまいました。

イノベーションを起こす条件

 産業化時代に生まれた教育と現代社会における矛盾を理解すると、今後どのような教育が必要なのかを考えることができます。主な観点としては、

組み立て作業ライン型の概念の崩壊、学校の役割の変化(学力→多様化する家族形態による一部の子育て)、情報提供者から学びの創造の場、アルゴリズム的な仕事から発見的問題解決の仕事へのパラダイムシフトなどです。

「複雑な問題を理解する、協働する、不確実性とあいまいさに直面しながら何らかの結果を生み出す、自分で動機づけしコミュニティのために働くなどの高次の能力」が、今後求められる新しいスキルになります。

生きたシステムとしての学校

 本書では、関係性に着目した学校システムの再考を提唱しています。ここでは、生徒中心の学習、多様性の奨励、正解至上主義から「相互依存と変化の世界」の理解、学校関係者の共同的な話し合いや考える場、学校関係者すべての人にとっての学習の場、子どもの改革への関わり、教室内の学びから日常生活の文脈の中での学びへのシフトを考えるべきだと主張しています。これ以降の章で、教室・学校・コミュニティで起こすべきイノベーションについて述べられています。

 それでは、次は第2章で重要だと思ったことを別の記事でまとめておきたいと思います。

<参考文献>
・ピーター・M・センゲ他著、リヒテルズ直子訳『学習する学校 子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する』(英治出版、2014)

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