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【小説】 夏休みのノスタルジア

 小学六年生の夏休み。

 うだるような暑さの中、シュンヤは小学校へ向かっていた。学期末の終業式の日、上履きを下駄箱に忘れて帰ってしまったのだ。シュンヤ自身は登校日に取りに行けばいいと思っていたが、「ちゃんと洗わないと、臭くなるでしょう!」と母がうるさかった。当初は面倒くさくて抵抗していたのだが……。

「靴が汚いと、ハルカちゃんにも嫌われちゃうよ!」

 その一言で白旗を挙げた。シュンヤは驚愕した、どうして自分の好きな人を知っているのかと。誰にも話していないはずなのに……かと言って、理由を母に根堀り葉掘り聞けば「自分はハルカが好きだ」と認めることになってしまう。それは恥ずかしいし、悔しい。シュンヤは恋愛感情を自覚したばかりの、いわゆる「難しい年頃」というやつだった。

 ともかく、動揺につけ込まれてあれよあれよとその日のうちに学校に向かうことになってしまった。ちゃんと取りに行けば、今日は自宅の家事当番をサボっていいとのことだ。シュンヤの母は、こういうアメとムチの使い方が上手い。ついでに家庭内教育もなかなかに達者で、シュンヤは小学生にして一通りの家事がこなせた。

 だが、シュンヤ自身は家事ができることを、少し恥ずかしいと感じていた。家庭科の調理実習で妙に上手く料理を作ってしまい、クラスメイトたちに褒めそやされてしまったことを、素直に嬉しいと思えなかった。どうせなら、ミニバスケットボールやサッカーで格好良いところを魅せたかったのに……。そう、シュンヤは難しい年頃なのだ。

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 「先生に連絡しておくよ!」と母が言っていたので、校門を通って児童用の玄関から入る。夏休み中は鍵が閉まっているのだが、先生が鍵を開けておいてくれたらしい。中に入ると、想像以上にひんやりと涼しかった。学期中は子どもたちの声で賑やかな玄関だから、誰もいないと余計に空気が張り詰めて、冷たいように感じた。

 蝉の鳴き声が聞こえる……遠くで工事をしている音がする……玄関から教室に続くリノリウム製の廊下が、この世とは別のどこかに繋がっているような気がした。少し、怖い。

 シュンヤは自分の下駄箱を確認する……あれ、右の上履きがない。確か終業式のあと、ここに置いて帰ったのに。下に落ちたのかな、と軽く見回す……無い。じゃあ、誰かが拾って下駄箱の上に置いたとか? 下駄箱の凹みに足をかけて、上を覗き込んで見る。

「ねぇ」

 心臓が止まりそうになった。フードを被り、狐のお面を着けた子供がいた。何、え、誰だ……いや、これ、え?

「"悪魔さん"って、知ってる?」

 フードの子供は言葉を続ける。全身が硬直する。怖い。怖い。なんだこれなんだこれ。口が渇く。声が出ない。時間が凍って固まったみたいだ。

「なんちゃって、びっくりした?」

 ……お面を取って素顔を見せたのは、ハルカだった。空気が緩む、緊張と緩和。今までに感じていた恐怖と、夏休み中にハルカに会えた嬉しさとで、シュンヤは感情の処理が追いついていなかった。

 ホイっと、と言ってハルカは下駄箱の上から飛び降り、玄関に降り立った。パーカーのお腹がホコリまみれになっていて、それをパンパンと叩いて払う。可憐というよりもざっくばらんな仕草、それでもいちいち魅力的に見えるのは、シュンヤが恋愛感情を持っているからこそなのだろうか。

「ね、びっくりした?」

 ハルカは未だ下駄箱の凹みに足をかけたままのシュンヤに再び問いかける。茶化した声色の中に、うっすらと真剣さが伺える。どうやら、ハルカにとっては重要なことらしい。

「びっくりした」

 シュンヤは素直に答えた。まだ感情の処理が追いついていない。びっくりさせたことに文句を言おうとか、何を言ったらハルカに好意を持ってもらえるだろうかとか、おばけじゃなくてハルカで良かったとか、おばけを怖がったなんて子供っぽくて恥ずかしいとか、色んな思考が駆け巡る。

 ハルカはグッとガッツポーズをして「よっしゃ」と小さくつぶやいた。ハルカはこういうイタズラをよくやる。他人をびっくりさせることに全力を賭している「変なやつ」だった。ハルカは演劇の習い事をしているらしく、そのせいか「変なやつ」に留まらない、なんというか……浮世離れした魅力を放っていた。

「……なんで、ここにいるの?」

 ようやく少しだけ冷静さを取り戻したシュンヤは、疑問を口に出して……口調が幼くなってしまったことを後悔した。恥ずかしい。まだ動揺は完全には収まっていないみたいだ。

 ハルカが言うには「学校の玄関が開いていたから」だそうだ。夏休みは街の探索をすべき、校門が開いていたら通るべき、児童用玄関が開いていたら入るべきで、誰もいない玄関では下駄箱の上に登るべき、なのだそうだ。そこに一切の疑問の余地はないようだった。

「ね、せっかくだし一緒に学校を探索しようよ!」

 ハルカは、なぜか手に持っていたシュンヤの右の上履きを差し出しながら、そう提案した。シュンヤは様々なことを思いを巡らせた末に「夏休みは学校の探索をすべき、かな」とシンプルな答えに身を委ねることにして、受け取った上履きを履いた。

 リノリウム製の廊下を、二人は奥に向かって歩き出す。蝉の鳴き声が聞こえる、遠くで工事をしている音がする。

 ……当然のことながら、学校内を無断で探索している途中で先生にバレて、母に叱られることになった。 

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