「毎回サイゼでもいい」って言ったけど

「毎回サイゼでもいい」と「ケチくさい人は嫌い」は両立する。してしまうからめんどくさい。

わたしは好きな人とごはんが食べたい。わたしがおいしいと思ったもの、その人がおいしいと思うものを一緒に食べたい。
その人の「おいしい」の感性を知りたくて、おいしく食べるわたしをちゃんと見てほしい。「おいしいね」って嘘でも言ったあと、おいしいと思う隙もないくらいにいろんなことを喋りたい。笑わせたい。生意気言って怒られたい。
ごはんはただの口実で、何時間も目的なく一緒にだらだら過ごせればいい。だから、サイゼのエスカルゴでも有名店の高級ディナーでもどっちでもいいのだ。その人がサイゼを心底好きなら毎回サイゼでもいい。お腹に入ればぐっちゃぐちゃになるのは一緒だし。

だけど、「ケチくさい人は嫌い」というのはまた別の問題。
好きとか嫌いとかじゃなく、ただ予算をケチるために行くサイゼはまっぴらごめん。本当はすき焼きが食べたいのにって思いながら行くサイゼは嫌。ど定番の味やドリンクバーの衛生面に顔をしかめるなら最初から行かなければいい。自分のことも満足させられない場所で相手が満足するとでも思ってるんだろうか。バカにしないでほしい。
「ケチる」っていうのは自分の感性を妥協して示すことで、相手の感性を低く見積もること。好きな人の「おいしい」「楽しい」を知りたくてデートするのに、ケチはその前提をぶっ壊してしまう。一緒に過ごす口実に本気になれない人と、これから何を楽しめるというのだろう。

だからって、無理して贅沢をしたいわけじゃない。お金がないならそう伝えてほしいし、限られた予算で最大限楽しむための努力は惜しまない。
その代わり、フリでもいいからまったく妥協してない顔をしてほしい。おいしくないとか汚いとかコスパとかケチなこと言わずに、嘘でも「おいしいね」って言ってほしい。そしたらいっぱい喋る。笑わせる。生意気も言う。そうしてるうちにおいしさとかどうでもよくなるし、おいしいと錯覚できてしまう気がするのだ。正直に越したことはないけど、このときだけは嘘の共犯になってほしい。

ここのところが伝わらないから、毎度いいものをおごってもらって恐縮するか、ファミレスと定食屋で満足する女として扱われてしまう。伝わったとしてめんどくさがられてしまう。それなら食事よりディズニーとかスイートルームのほうが面倒は少ないかもしれない。だけど、わたしは好きな人とめんどくさいことがしたいのだ。

「毎回サイゼでもいい」って言ったけど、「(こいつは)毎回サイゼでいい」とは思わないでくれよな。ということで。
あくまで女の総意でなく、個人の感想です。悪しからず。

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