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靴擦れ

パンプスがずっと好き。曲線美と攻撃力の高さが好き。歩くたびに打楽器みたいな音が鳴るのも好き。

だけど、わたしの足とはとことん相性が悪い。全部の指が一か所に閉じ込められる感覚も、出っ張った骨をすりつぶすような硬さも好きになれない。歩けなくはないけど靴擦れする。
あと何回靴擦れしたら社会と折り合えるのか。靴擦れを痛いと思わなくなったとき、わたしはどうなっているのか。そのことを考えて涙が止まらなくなった。

「履き方にコツがあるんだよ」と教えてくれる人もいる。「もう少しの辛抱だよ」と励ましてくれる人もいる。それを聞くと余計に恐ろしくなる。
コツが編み出されるほど無理な履物なのに、それを履くのが「当たり前」という前提はまだまだ根強い。口では「自由」とか「多様性」とか言いながら、目の前の窮屈そうな足元は無視する大人が大半だ。それに、辛抱したところで何になる。靴擦れしながら笑顔は崩さず、即戦力になれることをアピールしろ、だなんて虫がいいにも程がある。
痛みを押し殺した笑顔、抑圧の末に見える個性。権力関係を使ったSMプレイとしか思えない。それを耐え抜いた人だけが出られる社会で、誰が幸せになれるというのか。

今までは靴擦れしながらもなんとかやってきた。歩けなくはないから、痛いと思わないように麻酔をかけてがんばった。だけど、ここに来て麻酔が切れてきた。
もう一回麻酔をかけなおすか、新しい靴を履くか。今はその分岐点にいる。麻酔の限界は見えているけれど、新しい靴を履けば路頭に迷うかもしれない。そもそも、新しい靴がどこにあるのかわからない。暗中模索、四面楚歌。安易な自己啓発、不安をダシにしたぼろい商売、そういうものに引きずり込まれる人の気持ちが今はわかる。

靴擦れした足で、そこらへんの新しい靴を試す。今はそれしかない。
靴擦れを起こす自分の足と、靴擦れさせる社会を呪うだけの人生は絶対嫌だ。無理に納得して自分を小さくまとめながら生きるのも嫌だ。いっぱい水ぶくれ作っていっぱい泣いて、信じたいものがあれば引きずり込まれてみたい。麻酔をかけて勉強してきた分、自分を苦しめる沼を見抜く目は養われたはずだ。
ごまかさずに痛がって苦しむこと、折り合いをつけるのを諦めないこと、忘れないように根に持つこと。今のわたしにできるのはこれしかない。

ということで、有名どころからキワモノまでいろいろと手を出し続けています。その結果はまたいつかの機会に。

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