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苦言を呈する存在はいるか

苦言を呈することは、文句やクレーム、批評や評価とは違うと思っている。

その人のことをできるだけ理解しようとし、相手の心情や立場に充分配慮しながら、適切な場所とタイミングと伝え方で、相手にとって心地良くない可能性のあることを伝えること。それが苦言を呈することだと思っている。

簡単なのは、「相手にとって心地良くない可能性のあることを伝える」ことだ。言葉を発信したとたんに、それが心地良くない可能性は生まれる。ここでは、特にその可能性が高いような言葉をイメージしている。

次にできそうなのは、「相手の心情や立場に充分配慮しながら、適切な場所とタイミングと伝え方で」というところ。ある程度の人生経験があれば、ある程度の配慮と伝え方の技術は持ちうるはずだ。

けっこう難しいのが、「その人のことをできるだけ理解しようとし」の部分である。作品であれば、「その作品をできるだけ理解しようとし」と読み替えてもいい。

そのアーティストのファンであれ、類似ジャンルの専門家であれ、どれだけその作品と向き合えるかには適性や相性、コンディションがある。どんな作品にも、じっくり向き合えるわけではない。

しかしながら、僕は上記に該当しないような文句やクレーム、批評や評価を批判したいのではない。これらは自然に起こる現象で、経済効果やアーティストのメンタルへの影響は否定できないものの、取るに足らない情報の断片にすぎないと思っている。その断片も集合も空虚な数字であって、それ以外の何物(何者)でもないと思っている。

ただ時として、これらとは違った性質のものとして「苦言を呈する」を必要としているアーティストは多いのではないかと思うのだ。

あらゆる表現者に対して苦言が必要なわけではない。多くの場合は、共感と応援の方が必要であろう。その声はどれだけあっても足りないくらいに、アーティストにとって欠かせないものだし、常に欠乏症に陥っている。

ただ時として、自身の表現や在り方、たたずまい、アイデンティティ、キャラクターに悩む時期が訪れる。自己認識の苦悩が表現に結びつくこともあれば、表現が自己認識をしばってしまうこともある。

そんなとき、作品に対してのテクニカルな問題点や、その背後にある自己認識の苦悩を含めて理解してくれる存在を欲する。

この課題は深刻であり、時に生命にも関わる。それをアーティスト自身で解決することは困難である。

それを苦しみの中で自力で乗り越えた者もいれば、全てを捨てた者もいる。一度捨てた上で、長い時間を経て新しい表現を得た者もいる。

ただ、そのそばに、良き理解者として「苦言を呈する」存在がいた例も多いのではないだろうか。伝説的に苦悩を抱えた存在でも、歴史の影に、良き理解者がいたのではないか。

僕は何らかの才能に出会ったときに、そのそばに良き理解者が、「苦言を呈する」存在がいてくれたら、と思う。

何らかの才能には、共感と応援の声は集まりやすい。多くの表現媒体がある現代では、ある程度の才能があれば、いくらかの共感と応援の声は必ず届くはずだ。その多寡はアルゴリズムによると思うのだけれど、ある程度の条件がそろえば、ポジティブなメッセージは届くはずだ。

ごく少数のネガティブなメッセージがある場合もあるが、それはバグのような情報の断片にすぎないので、気にする必要はない。切実さのかけらもないような独り言に耳を傾ける必要はない。

だが、問題はアーティストが何らかの課題を抱えている場合だ。

周囲の賞賛に比して、自己の内部にある違和感。なにか違う予感。停滞感。なぜか落ち着かない、辛い感覚。それが何なのかわからないけれども、何か課題を予感している。

そんなときに、「苦言を呈する」良き理解者の存在が、その打破の力になってくれることもあると思うのだ。

そもそもそのような課題を抱えているのは、真剣で、誠実で、そして才能のあるアーティストである。多くの人は称賛されれば満足するのだ。称賛の中でも、称賛の中でこそ欺瞞を感じるのが、才能の証である。

そんな才能には、「苦言を呈する」良き理解者の存在が不可欠なのだ。多くの人にとってそれは不要なものである。多くの人にとっては、ただ称賛さえあれば、表現者として生きていけるのだ。

重ねるが、才能のあるアーティストは、自らにとっての良き理解者を見つけなければならない。自らが名馬であることを予感して、伯楽を見つけなければならない。

実はこれは、多くの人にとっては共感できないことだ。才能ある者は孤独で、だからこそ良き理解者を求めている。文句やクレーム、批評や評価ではない、「苦言」を求めている。

称賛はもちろん必須だが、それだけでは生きていけないのが天才の凡人とは違うところである。

もし、あなたの親しい人の中で、才能を感じる存在に対して、その存在が充分に称賛されている中でも、その表現に迷いや苦しみ、違和感が感じられたときには、その苦しみを分かち合っていただきたい。

そして、その表現分野に詳しくなくとも、自身の感覚に自信がなくとも、「その人のことをできるだけ理解しようとし、相手の心情や立場に充分配慮しながら、適切な場所とタイミングと伝え方で」、苦言を呈することはできるんじゃないだろうか。

それはたぶん、あなたにしかできないことなのだと思う。責任と労力の必要なことではあるけれど、あなたの「苦言」を待っている人もいるかもしれない。

僕にはたくさんの応援している才能があるけれども、これらのアーティストにとって「苦言を呈する」存在があってくれたらいいと思うときがある。

その表現の中に、苦しさや葛藤が見えるとき。才能が凡庸でいることを許さないとき。

それは才能を封印して凡庸の皮を被る道との分かれ道だったりもする。それを選択することはわるいことではない。ただ、少し残念に思うのだ。非常に勝手な思いなのだけれども。

そんなとき、結局は他人であるただのファンの言葉ではダメなのだ。あくまで当人と心的な交流のある人にしかできないことがある。

幸いにして高等教育機関や個人的な徒弟関係によって、師を得ている人は比較的恵まれている。その師がよき理解者であるかという問題はあるけれども、そうなる可能性は高いと思う。特にクラシック音楽では、生涯にわたってよき理解者として師事することは少なくない。

しかし、そのような縁に恵まれないアーティストがほとんどだと思う。

幸いにして僕はまだまだ称賛を欲しているし、まだまだ足りないので、苦言をいただく準備はできていないように感じているが、もし苦言を呈していただけるくらいに僕の表現を理解してもらえる存在がいるならば、うれしく思う。

このような存在は自分で見つけることは難しく、一応何人かに助言や感想を求めたが、未だにしっくりきたことはない。

日々活躍する表現者達が、その才能を埋もらせてしまうのは、人類にとって大きな損失である。彼らの才能を活かすには、良き理解者が不可欠である。彼らにそんな存在が寄り添ってくれていたらと願う。

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