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鈴木健と成田悠輔の対談について

鈴木健と成田悠輔の対談をリアルで見てきた。鈴木健さんは全く存じ上げず、成田悠輔さんは、メディアでなんとなく拝見したことがあるくらいだった。ただ、ちょうどその数日前、たまたまアナザースカイで取り上げられていたので、ふんわり気になってはいた。メディアに積極的に出るようになって、まだ1年にも満たないのではないかと思うのだが、センセーショナルな発言が取り立たされる一方、テレビで取り上げられるときには、その発言の意図を全く捉えていないような取り上げられ方をされているとは思っていた。なんとなく、頭が良くって、刺激的な物言いをする人は違う、というキャラクターとして扱われていることはわかっても、どのような方なのかはわからなかったし、あまり興味もなかった。しかし、偶然にリアルの場で対談が聞けるようだったので、行ってみることにした。予定も空いていたし、チケットは1500円だった。それで興味を持ったら、両者の著作を読んでみようと思った。

会場では、やはり成田悠輔さん目当てらしい方も多く見られた。成田さんの言動よりも、キャラクターに惹かれて来た方も多かったのだと思う。昨今、クラシック演奏家にしても、文筆家にしても、思想家にしても、そのキャラクターを愛する層が厚いことは多い。もちろん、その言論に興味を持って参加されている方もいらっしゃるようだった。そのあたりは、スライド(聴講者の質問を集約するサービス)への投稿から感じられた。僕自身はそのどちらでもなかったわけだけれども。

改めて思うのは、リアルの対談イベントに、どんな意味があるのだろうかということだ。実際、三週間前には、両者のリモート対談がYouTubeで公開されている。それと何が違うのか。一番は、語る側の心持ちだろう。まず、対談相手がリモートなのか、対面なのかでは、大きく心持ちが違う。伝えたいことの伝わり方、その受け止め方、受け止めたことの確認の仕方が大きく変わる。次に、観客の存在である。リアルの場で、それぞれの物理的な、空間的な存在感によって、対談の内容は大きく変わる。一方で、観客にとってもいくらか違いがある。特に、視線の向け方が大きいと思う。壇上を見るのか、壇上のどこを見るのか、隣に座る人を見るのか、カメラで撮影している関係者を見るのか、その自在さが、リアルの場の良さである。もちろん、それは聴覚的なものや、身体的なものもある。今回は、隣の席の方が、ずっとスーマートフォンの明るい画面を開いており、熱心に何か文字を打ち込んでおられる様子だったのが気になっていたし、斜め前の方がアンケート用紙いっぱいに文字を書き綴って係の人に渡している様子もまた気になっていたし、良くも悪くもノイズが入るのが、リアルの場のおもしろさでもある。

話の内容は多岐に渡り、それぞれの著作を読まないと理解が追いつかない部分が多かった。それでも、話としてとてもおもしろかった。僕が特に感じたのは、二人のアプローチの違いだった。二人に共通しているのは、おおざっぱに言って、この世界にどう対処していけば良いのかということをテーマとされていることだと感じた。とは言っても、それぞれが多くの試論を持っており、その中には重なる部分や共通する部分もあれば、噛み合わない部分もあるのだろう。鈴木健さんはとてもファンタジックで、スケールの大きい発想をされる方だと感じた。確かに、評論という方法では適切に伝えることが難しいようなアイディアに満ちているという印象を持った。一方で、成田悠輔さんは、とても現実的で、実態のあるものを扱うのに優れた方だと感じた。もちろん、両者とも、そのどちらも、そして他の発想も行き来できる方なのだけれど、対話をするときに主軸を置いている姿勢に、そのような傾向を感じた。やはり、今の日本では成田悠輔さんのようなアプローチの方が、たどりやすいと思う。白黒をはっきりさせ、答えをはっきりと指示し、そしてその答えは今の常識を打ち砕くようなものであること。それが、今の日本で受け入れられやすいものだろう。求められているものだと言ってもいい。ただ、もちろんそこには嘘もあって、実際がそんなに単純化できるものではない。それを、かなり単純化して、その本質はともかく、人々の行動変容を生むという点において効果的な言論を用いているのだと思う。それに比べると、鈴木健さんの言論は、どうもあやふやで、非現実的なものとして映るのかもしれない。少なくとも、一般大衆に受け入れられやすいものではないだろう。けれども、僕もどちらかというとそっちの人間で、わかりにくいものをわかりやすくしたくはない人間である。文体として評論では描けないものがあるから、エッセイと詩を用いている。だから、その語り口からすると、とても鈴木健さんに親しみを持った。一方で、成田悠輔さんのような存在を求めているのもわかる。本人も「壁打ち」とおっしゃっていたけれど、自分の論考をぶつけられる「壁」ほど得難いものはない。それは、その相手との関係性と、その相手との相性と、論じたい内容との相性が合致する必要がある。言葉にし難い妄言を吐く人間としては、それを大真面目に受け止め、打ち返してもらえる存在は貴重なのだ。そういった意味で、お二人の関係をうらやましく思った。

各氏の論考については、著作を読んだ上で、もしかしたら記すかもしれない。とりあえずは、帰り道の新宿駅で購入した成田悠輔の著作の方は読み進めている。そう、成田悠輔の作品は、新宿駅の書店で売られているようなものであり、鈴木健の作品は、そうではないということでもある。その良し悪しも含めて、もしかしたら、記すかもしれない。


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吉村ジョナサン(作家)
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