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コーヒーの香りに集中する

 昔はコーヒーなんて飲まなかった。コーヒーよりは紅茶の方が好きだった。飲むとしてもコーヒー牛乳やミルクコーヒーで、無糖やミルク抜きは考えられなかった。
 実家では毎日親がコーヒーを飲んでいた。しかも、豆を挽いて飲んでいた。毎日豆を挽くゴロゴロとした音が聞こえた。それでも、自分が飲むことはほとんどなかった。辺りに広がるコーヒー豆の匂いにも、あまり魅力を感じていなかった。


 遠い昔の記憶の中で思い出すのは、甘いコーヒー牛乳だ。それは父方の祖父母の家で飲んだコーヒー牛乳だ。なぜか祖父母の家では、朝、甘いコーヒー牛乳を飲んでいた。ホットミルクにインスタントコーヒーを混ぜて作るコーヒー牛乳が好きだった。優しく明るい雰囲気の家の空気と、穏やかな祖父母の印象と一緒に、あたたかいコーヒー牛乳の味と香りが思い出される。祖父母の精一杯のおもいやりが詰まったような味だった。
 社会人になってからも、相変わらず紅茶、それもミルクティーを好んだ。甘さの強い味を好んだ。もはや砂糖と乳成分を好んだと言ってもいいのかもしれない。少々甘さへの依存があったのかもしれない。
 たまに粉のインスタントコーヒーを試したことはあったけれど、積極的に飲むものではないなあと感じた。お腹のコンディションにも、あまり良くない気もしていた。
 それが、いつしかワーカホリックに飲み込まれていた時期に、ふとコーヒーに救われるようになった。きっかけは、お湯をそそいでこすタイプのインスタントコーヒーを試したことだった。
 職場にコーヒー好きの非常勤の先生がいた。一度は校長先生までされた後に退職されて、今は非常勤として働かれていた。コーヒーが趣味で、オリジナルの焙煎をしたドリップコーヒーを作られているほどの方だった。
 その方が作ったドリップコーヒーをいただいた。せっかくなので、ゆっくり丁寧にお湯を注いだ。じっとお湯が粉に染み渡るのを待っている間、何気なく湯気の中に鼻を近づけてみた。ゆるやかな蒸気といっしょに、すっきりとしたコーヒーの香りが鼻に入ってきた。少し酸味のある心地よい香りだった。その後飲んだコーヒーもどこか贅沢で、落ち着いた時間を過ごすことができた。
 それからというもの僕は、ドリップコーヒーを好んで飲むようになった。いただきものやコンビニで売られているもの、まとめ買いのものやちょっと高いものまで、いろいろなドリップコーヒーを試した。
 確かに値段と充実度は多少比例するけれども、大切なのはその過程だった。袋を開け、コップに取りつけ、お湯を注ぐ。鼻を近づけ、深呼吸し、芳香浴を楽しむ。ゆっくりドリップし、コップからはずす。そこまでの時間が、コーヒーに集中し、香りに集中し、今に集中する貴重な時間だった。そこから席に戻ってしまえば、慌ただしい時間に戻ってしまう。
 だから、コーヒーの味というよりも、香りを好きになった。コーヒーの香りは、自分の時間を取り戻すことの象徴のようになっていった。だから、スターバックスでちょっと特徴のある香りの粉コーヒーを買って、フィルターでこして飲むことも増えた。
 こうして僕は、ワーカホリックな一時期をコーヒーによって乗り越えられた部分があった。混乱と緊張の中にあって、ほんの数分に満たない時間だったけれども、調和と弛緩をもたらしてくれた。
 今でもコーヒーは飲むけれども、当時ほどの切迫感はない。ドリップしている時間を貴重に思うこともなくなったし、おざなりになってしまったようにも思う。それは、相対的に今の自分がゆったりと生きているからだろう。かつてほどは尊く感じられなくなったドリップコーヒーに、容赦なく冷たいミルクを注いで飲んでいる。

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