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僕は文脈を見ている

新しい音楽家や美術家、その作品との出会いは、主に演奏会や展覧会によって生まれる。ホールに置かれたチラシや、プログラムにはさまれた案内を手掛かりにすることもあれば、何となく街中で見かけた演奏がきっかけになることもある。美術に関しては、大規模な展覧会の中で目にとまる作品があることもあれば、ギャラリーをのぞいて出会うこともある。


一方で、ここ数年多くなったのが、ゲイ・コミュニティーの文脈で出会う音楽や美術だ。「二丁目文化」という表現は揶揄じみているけれども、ゲイ・コミュニティーの中で形成されている独自の文化があることは確かである。それらは、個々には社会につながっているけれども、ときに社会から断絶されたものとして受け取れる。

いわゆるバンド形式の音楽に親しむことの少なかった自分だったが、ゲイ・コミュニティー内で話題になっている市井のアーティスト達のライブに親しむようになった。視覚表現の分野でも、イラストレーターや美術家、フラワーアーティストや写真家など、多様なアーティストがゲイ・カルチャーの一翼を担っていた。


ただ、彼らを「ゲイ・カルチャー」の文脈だけで論じるのは不適切だとも思う。なぜなら、そこにゲイとしての当事者性を色濃く出しているアーティストがいる一方、その割合が低いアーティストも多いからである。

彼らを知るきっかけがゲイ・コミュニティーだったということの背景には、彼らの表現にもまたゲイ・カルチャーとしての文脈が影響していることは想像に難くない。もし仮に、ゲイ・カルチャーの文脈から逃れようとする、もしくは遠ざける表現だとしたら、ゲイ・コミュニティーという媒体では伝わってこなかっただろうと思うからだ。

きっと彼らが表現しているものにゲイ・カルチャーの匂いがするからこそ、ゲイ・コミュニティーでも伝播し、共感を持って肯定的に受け取られるのだろう。従って、そこにゲイ・カルチャーの匂いが少ないものは、ゲイ・コミュニティー内では伝播しにくいのではないか。

それは、ゲイとしての当事者性は必ずしも関係ない。クリエイターのセクシャリティがどうであれ、ゲイ・カルチャーに親和性の高いものは伝播されやすいように思う。


そこで難しいのが、ゲイ・コミュニティー内でゲイ・カルチャーの外にある作品を論じるときである。音楽にしても、美術にしても、ゲイ・カルチャーの外にある表現は多彩で、魅力に満ちたものがたくさんある。しかし、それらが今一つ伝播しにくいという部分があるような気がする。

当然ながら、ゲイ・カルチャーの文脈にある芸術は全体のほんの一部分にすぎない。その外にあるものの方が圧倒的に多いはずである。しかし、それらに目が向けられることは、ゲイ・コミュニティー内では少ないように感じている。ゲイ・カルチャーに属さない作品も、ゲイ・コミュニティー内でもっと広がってほしい、評価されてほしいと思う。


だが、問題はそこではない。ゲイ・カルチャーの外にある作品が伝播しにくい一方で、ひとたびゲイ・カルチャーの文脈に置かれたクリエイターは、一気にゲイ・コミュニティー内を駆け巡る。伝播しすぎてしまう。

それは作品の作風にゲイ・カルチャーを感じることもあれば、クリエイター自身がゲイをカミングアウトしているということもある。言ってみれば、その作品がどのような作品であるかどうかは問わず、クリエイターがゲイだから、ゲイ・カルチャーの文脈で作品が語られ、ゲイ・コミュニティーの中を駆け巡るのである。

そこで問題としたいのが、作品をゲイ・カルチャーの中でしか評価できなくしてしまうということである。「女流作家」や「障害者アート」といったカテゴリーで語られたクリエイターや作品群も、同様の問題に向き合ってきた。

仮にそれがゲイとしての当事者性を前面に押し出したものだとしても、その作品がゲイ・カルチャーの文脈でだけ論じられるのは、適切ではないだろう。ましてや、ゲイとしての当事者性とは違った側面での表現であれば、なおさらその文脈だけで論じられるのは適切ではないはずである。

だから、ゲイ・コミュニティー(繰り返し用いているが、このコミュニティーもまた一枚岩ではなく、多様に分化している)の中を高速で駆け巡る作品群もまた、ゲイ・カルチャーの文脈によって鑑賞される、もっと言えば消費されることは、クリエイターとして本望である作品もあるだろうが、必ずしも良いことではないのではないかとも思うのである。


僕がこのような想いに駆られるのは、ゲイの友人や知人の作品の中に、「いいな」と思えるものがあったときである。音楽にせよ、美術や映像にせよ、「いいな」と直感的に思える作品と出会うことがある。そんな作品は社会的にも評価されてほしいし、クリエイターには賛辞の言葉が大量にもたらされてほしいと思う。そして、次の作品につながってくれればと思う。

だが、ゲイ・カルチャーの文脈から離れている作品にはなかなか賛辞が届きにくく、ゲイ・カルチャーの文脈に近しい作品には賛辞が届きやすいのではないかと考えている。

一方の問題点は賛辞が届きにくいこと、一方の問題点は、ゲイ・カルチャーの文脈での賛辞に終始してしまうことである。


前者はまだいい。えてして作品というものは、まずは属するコミュニティーの強さで作品の影響力が決まる。だからこそ、芸大音大を出るとか、美大で学ぶとか、合同展示会に出品するとか、そういったことが大事になってくるのだ。

ましてや、このSNS全盛期の時代、浅く広いコミュニティーの影響力もばかにできない。もちろん一方で、仲間内で作曲作品や美術作品の個展を開くといった、深く狭いコミュニティーの強化も大事である。

ゲイ・コミュニティーから離れた作品づくりというのは、ある意味ではそのようなせっかくのコミュニティーの一つから離れるということだから、戦略としてはリスクのあるものである。

だが、それならそれで別のコミュニティーにアプローチできるはずだし、他の文脈で評価されることもあるので、こちらはそれほど問題ではない。


問題なのはやはり後者で、音楽でも美術でも映像作品でも、ある作品がゲイ・カルチャーの文脈で評されるのを目にするたびに、それは作品を見ているのか、文脈を見ているのかわからなくなってしまう。

我々は、ゲイの作った音楽、ゲイの作った美術、ゲイの作った映像作品を、その作品自体ではなく、ゲイ・カルチャーという文脈として見ていないか。作品自体ではなく、文脈を見ているのではないか。

ふとそのような自分自身のまなざしに気づいたときに、恐ろしくなったのだ。僕は作品を見ていない。文脈を見ている。


是枝裕和監督の映画「怪物」がクィア・パルムドール賞を受賞したことで、この作品が「クィア」の文脈で語られることとなった。

もちろん、そこには課題や問題点もあるかもしれないが、あまりにもそこが強調されすぎてしまったことは疑いないだろう。それは、必ずしも作品の評価として適切ではない。

繰り返しになるが、同じようなことは「女流作家」や「障害者アート」についても何度となく論じられてきている。

これは仕方がないことなのだろうか。我々の眼は、このバイアスから逃れることはできないのか。

もちろん、バイアスから逃れることが全てではない。文脈を巧みに乗りこなすことも、古今東西の芸術家たちが行ってきたことである。

だが、ゲイ・コミュニティーにとって、それは幸せなことなのだろうか。


我々の眼は、時としてクリエイターの鏡となる。クリエイターはときに、我々の眼を鏡として、自身の創作を評価する。

だから、我々の眼が、作品ではなく、「文脈」を見ていたのだとしたらどうだろう。

クリエイターが見ていた鏡は、作品ではなく、我々が作品とは無関係に気配を感じている「文脈」なのではないか。そして、クリエイターは「文脈」を自己認識としてしまうのではないか。


それは、必ずしもわるいことでは、ない。そうやって「文脈」を描くことに成功することもあるだろう。創造の目的は多様である。ゲイ・カルチャーとしての一翼を担うこともまた、創造の目的として自然なものである。

だが、一方で、我々の眼が、クリエイターに影響を与えうることもあるということも、我々は自覚しなければならないのではないか。

そして、もう少し文脈よりも、作品にまなざしを向けても良いのではないか。


僕自身はどうも、この「文脈」の影響からはなかなか脱せない。クリエイターの性別や、身体障害や精神障害の有無、セクシャリティーや国籍によって、作品をみてしまう。

何度も言うように、それが必ずしもわるいことではない。自然なことではある。しかし、そのようなまなざしに自覚的になることもまた、鑑賞者として大事なことだとも思うのである。


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