カブール発復興通信

No.14「COVER STORY アフガニスタンにいまだ復興の兆し見えず この“国家“を国際社会は救えるか」

新潮社 『 Foresight 』2006年9月号より転載。見出しは「COVER STORY アフガニスタンにいまだ復興の兆し見えず この“国家“を国際社会は救えるか」。

アメリカに〝Justice League〟というアニメがある。直訳すれば「正義同盟」だろうか。一つのマンガに、スーパーマン、バットマン、ワンダーウーマンなど正義の味方がみんな登場して一致団結して悪者をやっつける。子供にとっては楽しいに違いない。時々自宅に帰ると、自分の息子たちもそれを観ている。何か言おうと思うが、さて何を言えばいいのか。

アフガニスタン、そしてイラク。圧倒的な軍事的優位を持つ正義の味方が悪者を叩きのめす・・・。今これについては議論しない。アフガニスタンでは正義がシナリオ通り勝った、としよう。そして、アフガニスタンはどうなったのか。

七月三一日からアフガン南部の指揮権が米軍からNATO(北大西洋条約機構)軍指揮下の平和維持軍(ISAF)に移され、南部に展開した英軍は早くも六名の戦死者を出した。平和維持というレトリックはきっぱりと現実に暴かれる。もはや我々のような援助関係者が村落地域の援助活動のモニターをしたいなどと申請しても、戦争を見学したいのかと一笑に付されるだけだ。カブール市内でさえ、街を散策することなど到底許されず、無線室から一日一回は警告メールが入ってくる。典型的なものは次のような文面だ。「カブール市何々地域で自爆攻撃発生。三台炎上中。X地点からY地点までの移動禁止」。まるで空襲警報のようだと思いながら、さっと警報メールを削除して仕事を続ける。

正義同盟はアフガニスタンで何をしくじったのだろう。

我々が現在、国家という言葉を使う時、十七世紀以降ヨーロッパで登場する国民国家という概念を下敷きにしている。一個の統一された国民(nation)と、その国民全体を覆う統治機構(state)が統合したものとしての国民国家(nation state)なるものは、アフガニスタンには存在しなかった。一九七三年に成立した共和政にして も、カブールの外ではその権力の浸透力は限られていたのだ。

七〇年代末から始まるソ連という外敵の侵攻は、部族を超えたアフガン国民(nation)という意識を高めただろう。しかし、ソ連撤退後の内戦は、アフガニスタンでは人々の帰属意識が部族からより上位概念の国民へと移行していく過程が完了していないことを示していた。

二〇〇一年の米同盟軍の攻撃と、それに続く国際社会の復興支援は、アフガニスタンの人々が国民へと統合する過程にとって、どのような意味があったのだろうか。第一に、米同盟軍のタリバン排除という目的が、結果的にはタリバンの基礎となっていたパシュトゥーン族の排除として現れたため、部族間の分断が強烈に現れることになった。第二に、復興支援の地方への展開の遅れが、元々存在した中央と地方の分断をさらに助長した。そして最後に、復興支援もしくは援助景気の恩恵をこうむった成功者と三百五十万人の餓死寸前の人々との格差が現れ、持てる者と持たざる者との分断を引き起こした。

米同盟軍の攻撃と国際社会の復興支援というまったく異なるタイプの外部からの介入が、同様にアフガン社会の分断化に貢献してしまっている。そして、これらすべての分断化が現在のセキュリティの悪化と深く関係しているのは言うまでもない。

社会学者マックス・ウェーバーによると国家(state)とは「一定の領土内で武力の独占的行使を正当に主張できる社会」だという。だとすれば、アフガニスタンは国家と呼べる状態にはほど遠い。各地方の軍閥は依然武力を維持しているし、個々の一般家庭でも武器を維持しているのが実態なのだ。この状態は、国民(nation)としての統合度の低さと深く結びついている。分断された領土内、つまり潜在的な敵対関係が常に存在する状態で、武力を明け渡すというのは自殺行為であるからだ。

一般に国際協力という名の下で行なわれる活動には西洋近代をモデルにした規範が深く埋め込まれており、近代化を外部から推し進めるという機能を持っている(連載第十一回参照)。これの第一の問題は、西洋近代はモデルとしての資格を持つのかという根本的な問いだ。この問いに普遍的な解答はないだろう。それぞれの社会が内部の議論によってその社会にとって最善の解を見つけるしかない。しかし、復興支援という形で始まる外部からの西洋近代化は、その過程を許さない。第二に、仮にアフガン人自身が自覚的に西洋近代をモデルにした近代化を達成しようと決意したとしても、外部から与えられるとすれば、近代化の本質とはかけ離れている。

これは、アフガニスタンの復興支援に限らず、国際協力、つまり外部からの援助が常に陥るジレンマだ。このジレンマは戦勝国が敗戦国に対して行なう復興支援では特に顕著になる。自由を強制すれば、それはもはや自由ではない。民主主義を強制すれば、それはもはや民主的ではない。しかし、戦勝国が行なう敗戦国の自由化も民主化も敗戦国民に選択の余地がないという意味では、事実上の強制となるだろう。

国際社会によるアフガン内戦への介入は、破綻国家の存在は国際社会の安全を脅かすという論理を基に始まった。国家主権という概念を絶対的なものとすれば、ある国家が破綻しようがしまいが、外部からの干渉は許されなかったはずだ。アフガン内戦介入に際しては、ブッシュ政権の先制攻撃論が国家主権を侵害するものとして議論されたが、ブッシュが国家主権を弱めたわけではない。九〇年代に入って、旧ユーゴスラビアの例に見られるように、人道的危機や深刻な人権侵害を理由にした外部からの介入はすでに始まっていた。根拠は異なるにせよ、国家主権が絶対視されない時代に我々はいる。

破綻した状態から救うために、国際社会はアフガニスタンの開発に取り組んでいる。しかし、そこにもまた大きなジレンマが潜んでいる。もっとも即効性がある援助は、極端に言えば、外国から専門家が大挙してやってきて、すべてを自分たちでやってしまうということだ。しかし、それでは現地人の能力はますます劣化し、やがて国際社会が去った後はすべて元の木阿弥になってしまう。もう一つの方法は、時間はかかるが、裨益国が自前で自国を開発していく能力をつけることに対して援助する方法だ。しかし、これは眼前の状態があまりに悲惨なアフガニスタンのようなケースでは許容し難いだろうし、かつアフガン国内の政治的な分断を抑えるために、早い時点で国際社会の援助の効果を見せることが必要だという要請もあった。それに加えて、すぐに目に見える効果が現れない援助というのは、援助する側の国内での支持を得るのが難しいという現実もある。

戦後の正義の実現、つまり戦犯とみなされる人々を公平な裁判の場で裁くというのは、今のアフガニスタンでは贅沢であるとカルザイ大統領が考えるのは(第三回参照)、とりあえずの安定性を確保するという点では妥当なものであったかもしれない。但し、それはこれまでの〝不正義〟の数々が平等に棚上げにされた時にのみ意味がある。現実には、グアンタナモ基地や国内のバグラム基地にタリバンとみなされた多数のアフガン人が拘束され、死に至る拷問や侮辱的な扱いがそこで行われていると報道されている。ソ連侵攻下で行われた、あるいはタリバン以外の軍閥が行った残虐な拷問も処刑も虐殺も略奪も強姦も不問に付したまま、タリバンだけを処罰することによって、正義か安定かという問い自体が根底から無駄なものになってしまった。選択的な正義はそれ自体〝不正義〝なのだから。つまり、対テロ戦争の最初の成功例となるという役割を担うが故に、カルザイはアフガン社会を統合していくのではなく、分断を固定化するはめになったのだ。正義と交換に得たはずの安定はどこにもない。

この現状を前にして今、カルザイ個人の資質を問題にするのは見当ちがいだ。再考すべきことは国際社会の側にある。

カブールの街を歩くと、アフガン人との距離が遠くなったと感じる。物乞いをする子ども達の哀しげな視線の中に憎しみが沈んでいる。困惑する外国人に執拗につきまとう、そんな子ども達をたしなめる通りがかりの大人のアフガン人の苛立った表情には怒りではなく、哀しみがにじんでいる。息子たちに言うべき言葉は何なのか。私はそれをカブールで考えている。

(本連載は今月で終了します。ご愛読ありがとうございました)

「カブール発復興通信」目次
No. 1  「アフガン人はどこに戻るのか」
No. 2 「アフガンを覆う「4つの経済」
No. 3 「大統領を苦しめる正義と安定のジレンマ」
No. 4  「アフガンに眠る無数の地雷」
No. 5 「苦しみながら進化してきた地雷対策」
No. 6 「セキュリティ対策「二つの変数」を問え」
No. 7 「未来への決意を試されるロンドン会議」
No. 8 「全土34県に広がるけしの栽培」
No. 9 「アフガンの曙光を映し出す現地テレビ放送」
No. 10 「歳をとらないアフガンの女性」
No. 11 「「外部からの近代化」は近代化なのか」
No. 12 「伝わってきた普通のアフガン人の怒り」
No. 13 「アフガンの舵取り役が負わされた課題」
No. 14 「COVER STORY アフガニスタンにいまだ復興の兆し見えず この“国家“を国際社会は救えるか」

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