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この世の果ての魔女の声

根室での集金を終えて、母とともに汽車とバスで北上した。たどり着いたのは野付半島だった。

最近では「『この世の果て』みたい」と人気の観光地らしい。当時の私にとっては、本気で本当の「この世の果て」だった。インスタ映えからは500億光年離れた、別の惑星。

とにかく色がない。空も地面も草も木も生気がなく、ミイラみたいだった。そのくせ、目の前のある海は異様に黒い。波も黒い。海全体が巨大な生き物みたいに動く。その背中のあたりに、ぼんやりと島が見える。日本とソ連が混ざり合った島だ。

どうやら父は、この「この世の果て」にも行商に来ていたらしい。商魂もすごいが、体力もすごい。まだ11歳だった私は、数日間の集金の旅でも、すでに体力を使い果たしそうになっていたのに。

バスを降りて歩くこと数分。母とともに野付半島にある観光センター的なところにやってきた。

「観光センター的」とわざわざ“的”をつけたのには訳がある。ボロいのだ。センターなんて名前で呼ぶのはおこがましい。『千と千尋の神隠し』の湯婆婆なら「ふん、ぜいたくな名だね! 今からお前の名は廃屋だよ!」と言うこと間違いなし。

そのセンター的なものには、従業員的な人が2人いた。そこの所長的なおっさんと、事務員兼ウェイトレス的なお姉さんだ。眼鏡と眉毛が合体している所長的なおっさんは、私と母を見るなり飛んできて、妙に馴れ馴れしく接してきた。

「ああ、あの三浦さんの奥さんとお嬢さんね!」

どうやらおっさんは生前の父を知っているらしく、私と母にコーヒーを出してくれた。

甘くして飲もうと、砂糖とミルクを入れる。コーヒーの色が変わらない。黒が少し明るい黒になっただけだ。かき混ぜるスプーンから、泥水みたいな重さが伝わってくる。仕方なく飲む。ここの海の水を喉に突っ込まれている気分になった。

母がこの観光センター的なものに立ち寄ったのは、この一帯で集金をするために、どのように回ればいいかを訊ねるためだった。母が用件を口にすると、おっさんは眼鏡と眉毛をいっしょに動かしてウンウンと頷き、いろいろと教えてくれた。

バス停やバスの時間、タクシーを呼べる範囲などを確認し終え、お礼を言って立ち去ろうとしたら、おっさんが突然切り出した。

「せっかくここまで来たんだから、トドワラまで行かないかい?」

「トドワラ」は、海水に侵食されたトドマツが立ち枯れしたままで残っている地帯のことで、ここらへんではかなりの人気の観光スポットらしい。

おっさんはしきりに、「俺の車で」「ちょっと行くだけだから」「行かないと損」「ほんと、ほんとにちょっとの時間で済むよ」とくり返す。

自家用車で観光させていただくのは申し訳ない、と母は断ったものの、「まぁまぁ、時間もあるし、いいじゃないの」なんて言いながら、おっさんは勝手に車を回してきた。

「お嬢さんは疲れてるんじゃないかい? ここで休んでいればいいよ。お母さんと俺で行ってくるから」

おっさんが言う。ふつうに聞けば親切な言葉だ。しかし、私のひねくれた耳には、そうは聞こえなかった。おそらくこのおっさんは、母とふたりきりになりたいに違いない。そして、いやらしいことをしようとしてるんじゃないか?

当時、母は40代だった。気さくな人で、人付き合いもうまいので、いろんな人が母のもとを訪れていた。父が亡くなってからは、近所のおっさんたちもよく顔を見せるようになっていた。

朝、開店直後にあいさつがてら来る人もいれば、店が暇な時間を狙ってくる人もいる。私が学校に行っている時間を選んで来るやつもいた。

私は当初、このおっさんたちは、夫を亡くした母の身を案じて来てくれているのだと思っていた。「親切だなー」と。

それでもしばらくすると、おっさんたちの思惑に気づく。「うら若き未亡人」なんていう、日活ロマンポルノでありがちな設定に、おっさんたちのスケベ心が刺激されているだけだということに。

母はかなり気丈なタイプなので、おっさんたちをうまくいなしてはいた。しかしそれでも、「あわよくば未亡人と……ぐへへへへ……」みたいなおっさんたちは、ひっきりなしにやってきた。

きっとこの所長的おっさんも、その1人に違いない。そんな気がした。

どうしてなのかはわからない。ただ、地元で母に群がってくる男たちと、同じにおいがしたのだ。女の不幸に寄ってきて、さらに不幸に突き落とそうとする、蠅みたいな連中のにおいだ。ねとついた視線とだらしない口許。「奥さん若いから」「若いのに独り身なんて」「お子さんを育てるの、ひとりだと大変だろ?」うっせぇ黙れ。

ならば、そんなおっさんと母をふたりきりになんてさせるものか――そんな気持ちが、私の背筋をのばした。用心棒というか番犬というか。だから、どんなに母に拒否されても、私はついていこうと思っていた。

私が「いっしょに行く」と駄々をこねようとしたら、それよりも先に母が「いえ、娘もいっしょに」と言い放った。母の頬の肌が張りつめている。母もきっと、私と同じような危機感をもっていたんだと思う。

私と母をのせたおっさんの車は、細長い半島の背骨を抜くように進んだ。まったく地理が不明な地域で、知らないおっさんの車で、知らない場所に連れて行かれる。安心できる要素など、ひとつもない。

このまま母と2人、おっさんに殺されてしまうのではないか。いや、違うな。おっさんはまずは私を殺して、母にいろいろしようとしているんじゃないか。決して火曜サスペンス劇場の見過ぎではない。本当にそう思っていた。

もし、おっさんが私や母に手をかけようとしたら、どうする? 11歳のガキなんて、力では絶対にかなわない。それでも、何とかしなくちゃ。

私は下げていたポシェットのなかから家の鍵を取り出し、握った。いざとなったら、これでおっさんの目を突いてやる。いや、眼鏡を割らなきゃダメか。めんどくせぇ。だったら喉元をついてやる。ちきしょう。

しばらくして、車が停まる。車を降り、木でできた道を進んでいく。そこにもまた、「この世の果て」みたいな景色が広がっていた。

美しいとか見事とか、そんな感想はどうやっても出てこない。世の中に見捨てられたものが集まって、すべて朽ちてしまったような場所だった。

生臭い風に煽られて、至るところでカサカサと音が鳴る。草が擦れる音だとは思うけれど、目に見えない生き物が蠢いているんじゃないかと思えた。

地面の上にいくつも転がる、立ち枯れの白い木。死ぬ前の最後の抵抗なのか、尖った幹を空に突き上げている。どう見ても白骨だ。私がおそるおそる触れようとしていると、離れた場所にいた母の背後に、おっさんが忍び寄っていた。

あいつ、何かする気じゃないか?――その不安から、私は母へと駆け寄る。近づいて見えてきたのは、母の首元にキスをするおっさんの姿だった。

やだ。やめさせないと。私は鍵を持った手を動かし、おっさんに向かおうとした。でも動かない。怖い。なにが怖いかなんてわからなかったけれど、体の動きが止まってしまう。

おっさんの両手が母の腰に回る。母は動かない。動けなかったんだと思う。母はとても身持ちが固く、父以外の男性と関係をもったことなどない人だ。そんな人がこんな目に遭うなんて。

そのとき、突然母の笑い声が聞こえてきた。ははははははは、と喉を目一杯広げているような声。狂った女のような声。魔女の声。それがこの世の果ての湿った空気を、一気に乾かした。

おっさんの邪悪さやスケベ心を吹き飛ばすように、母は笑っていた。そんなキスごときに負ける女じゃないよ、と言いたげな声だった。

母の反応に面食らったのか、おっさんは母から跳ねるようにして離れた。だからといって、私はおっさんを許す気にはなれなかった。

私はやっとのことで動き出した足で近寄ると、おっさんの脛を思いっきり蹴った。おっさんはかなり痛がり、「何をするんだ」と怒っていた。

私の態度を根にもったのか、おっさんは帰りの車のなかで「こんな愛想のない子ははじめてだ」とか「この子が乱暴なのはだれに似たんだ?」みたいなことをブツブツと言っていた。母は一度だけ「すみません」と言ったきりで、おっさんの言葉にあいづちも打たなかった。

車のなかで、私はずっと泣きたい気持ちを抑えていた。どうしてこんな目に遭うんだろう。父が死んだから? 哀れな母子連れに見えたから? そして、こんなおっさんに頼らざるを得ない私と母は、いったい何なのだろう?

おっさんは別の観光名所にも連れていこうとしたが、「時間がないので」と言って、この日の宿まで送ってもらうことにした。その宿は漁師の奥さんと娘さんが経営していて、父が生前に販売会場として使わせてもらっていたところだという。

宿に着き、おっさんに礼を言う。「明日は車でいっしょに集金に回ろうか?」というおっさんの申し出を丁重に、それはもう丁重にお断りし、おっさんの車を見送った。

そして宿に入る。奥さんも娘さんも、私と母を大歓迎してくれた。

「暑かったでしょう。これ、冷やしておいたんだよ」

娘さんがパンパンに膨れたビニール袋を私にくれた。凍ったカップゼリーがたくさん入っている。部屋に持って行き、すぐに食べた。冷たいのに、体が一気にほぐれた。横でチャリ、と小さな音がする。畳に鍵が落ちていた。ずっと握りっぱなしだったことに、このときやっと気づいた。

母は、積まれた布団に寄りかかってうたたねしていた。その横に寝そべり、母の首元を拭う。おっさんの触れた跡を取り払うように。そして、おっさんが苦しんで死にますように、と願いながら目を閉じた。マジで死んでほしい。

※この話は、「『サカナとヤクザ』と私と根室」「昆布と潮風に巻かれて」の続きになります。

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