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⑨勝者と敗者のいない夜。比嘉大吾VS堤聖也



「瞼の傷口が深く、ダメージの心配もあるので堤陣営は今から病院へ向かうそうです。
従いまして、堤聖也選手の記者会見はなしということで」

比嘉大吾の会見が終わると同時に、テレビ局のスタッフだろうか、関係者からそうアナウンスがあった。

新聞記者たちがプレスルームへと急ぐ中、帰り支度をし、エレベーターで一階に降りた。ビルの出入り口の横にちょっとした人だかりが見える。近づくと、一足先に降りていた雑誌やWebの記者数人が堤と石原雄太トレーナーを囲んでいた。病院に向かう前に、急遽囲み取材に応じたようだった。

急いで輪に入る。目の前に堤の右横顔があった。腫れ上がった右目はほとんど塞がっている。
今夜もまた、勝者にも敗者にもならなかったボクサーは、聞かれたことに淡々と答えていた。

「……ボクシング、こんなに引き分けがあるんだって思われるのもかっこ悪い。……また、夜にかけて悔しさが増してくるんじゃないですかね……」


ほどなく病院へ向かう時間が迫り、陣営は駐車場へと消えて行った。


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囲み取材に出遅れた私は、この連載の続きを書くため、翌日、角海老宝石ジムの浅野完幸マネージャーに堤選手の電話取材をお願いしてもいいか尋ねた。数日後に熊本に帰省するようなのでその前がいいかもしれませんね、とのことだった。
本人に予定を確認すると、今夜で大丈夫だという。


聞こえてきた声は、思いのほか元気そうだった。
「もう顔、マジでヤバいですよ。こんなに腫れたの生まれて初めてですよ!」

瞼の傷は7針縫った。ただ、昨日の夜は完全に塞がっていた右目は、今日の夕方ごろから少し開きつつあるという。

目はジャブ、で?

「そう……ジャブ、比嘉のジャブだと思います」

刹那、声にやや苦々しさが混じった。

俺がやろうとしたこと、逆にやられちゃいましたねーー



早く観たいのだが手元にまだ試合の映像がない。だから記憶と実際にずれがあるかもしれないですけど、と前置きした上で、堤は話を始めた。

――試合前、控え室でバンテージを巻き終わってアップを始めたとき、あれ、俺ちょっと固いなと思ったんです。でも動くうちにほぐれてきて、石原さんもミットを受けながら、パンチキレてるし反応もいいぞ、会長もバッチリだな!って言ってくれた。でも僕の中では、んーちょっと固いんだよな……なんかもうちょい、もうちょいっていう感覚が消えなかったんですよね。


それでも曲が始まれば大丈夫だ、という確信があった。映画イージーライダーのテーマ曲。「Born to be wild」を背に戦いの場に上がることは、プロになる前から決めていた。

ワイルドに行くぜ!

自分が生きる人生はこうでありたい。戦いの場ではなおさら。決意を込めた選曲だった。

事実、プロになってからこれまでの6戦、イントロが流れ出すと自然、腹が決まった。それまでの不安やかすかな怖れは、その刹那、闘志に変わった。吹っ切れた、と確かに実感する瞬間があって、そこから先、胸には勝ちにいくというまっすぐで疑いのない気持ちだけがあった。

その確かな感触が、今日は、ない。
意識的に、吹っ切ろう、吹っ切らなきゃと言い聞かせながら、リングまでの花道を歩いた。


その夜、私は西側のバルコニーに設けられた記者席の端にいた。少し身を乗り出すと、真下に青コーナー側の花道が見える。
Born to be wildが流れだし、ややあって、トランクスにTシャツ姿の堤が現れた。リングの下まで来ると、立ち止まり、客席に向かって一礼した。
深く、深く、呼吸する堤は、なにか感極まっているように見えた。腹の底からものすごい量の感情が込み上げてきて、それをどう処理していいか持て余しているようにも見えた。
堤は天を仰ぎ、それから、うおーーー!!!と吼え、リングへの階段を上がった。


堤がリングインし、曲がフェイドアウトすると、会場が暗転した。

比嘉の入場。
大きな足音が聞こえた。

どーん、どーん。

そして雄叫び。
流れてきたのはゴジラのテーマ。新生・比嘉大吾のために野木丈司トレーナーはこの壮大にして不気味、不安と恐怖を煽る曲を選んだ。


いいセンスしてんなー。

「破壊のイメージが大吾にぴったりだな、そう思いましたよ」


なかなか姿を見せない比嘉を待つ間、暗いリングで堤は石原トレーナーが構えた両手に向かってシュッ、パパーンとパンチを打った。一つ二つ、確認事項を確認すると、師のもとを離れ、シャドーボクシングを始めた。

体はいい具合に温まっている。

だが。

まだ、何かが拭えない。

自分の内に巣くう、ほどけきらない緊張なのか、何なのかわからないものを振り払おうと、ロープ際まで歩くと、自分の応援団が座る観客席に目を走らせた。親しい友人や仲間の姿を探し、視線を合わせ、頷いた。幾度か繰り返した。


突然万雷の拍手が沸き起こった。花道に主役が姿を現したのだ。今、規制により応援の発声は禁じられている。「大吾!!「頑張れ!!」と叫べない分まで、観客たちは大きな拍手で歓迎した。指笛も混じっていた。

キャップにTシャツ姿の元世界王者は、リング下でしばし祈りを捧げると、階段を駆け上がり、リングに入った。堂々とした風情で腕をあげ、熱気に応えるようリングをまわる。
比嘉は堤を見なかった。


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同じくそっぽを向いていた堤は、だが首と腕をまわしながらこれから戦う相手の体を視界の端に入れた。

大きくは見えなかった。計量で会ったときにも感じたことだった。

フィジカルでは負けてない。いや俺の方がでかい……。


レフェリーが2人をリング中央に呼び寄せ、試合の注意事項を伝えた。
コーナーに戻りながら、堤は自分に決意を確認する。


……待ちに待った舞台だぞ。相手は比嘉大吾だぞ。……戦うことを愉しんでやる!!


カーン。


ゴングが鳴った。



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