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俺が欲しかったのって、本気で生きる、という生き方なんじゃね? 2019.4.6細川バレンタインVS井上浩樹 中編


2年前にA-SIGNのホームページに書かせていただいた記事を加筆訂正を加えここに転載します。当時日本スーパー・ライト級王者だった細川バレンタインが、井上浩樹(大橋)を迎え、3度目の防衛戦を戦った、その直前の記事です。



 ナイジェリア人の父と日本人の母との間に生まれた。父の祖国で家族五人暮らしをしていたバレンタインが、単身、宮崎県の祖父母の元にやってきたのは7歳のとき。ナイジェリアの不安定な情勢がさらに悪化し、三人の息子たちの将来を憂いた両親が下した決断だった。誰か一人でも日本で教育を受け、将来日本とナイジェリアの架け橋になってくれれば。両親の切実な願いを、三人は無理だが一人なら、と受け入れてくれたのは、定年を迎えたばかりの母方の祖父母だった。

孫を甘やかす優しい祖父母、ではなかった。60歳を越えた身で、英語しか理解できない孫にあいうえおを教えることから始まった「子育て」。

礼儀作法はもちろん、学年3位以下の成績をとろうものなら激しく叱責された。彼が今、礼儀正しくて、美しく正確な日本語を話せ、達筆なのも、すべて祖母が厳しく、根気よく躾けてくれたおかげだ。
くそ婆ぁと悪態をつかれようが、祖父母はいつのときも体当たりで、全身全霊で孫と向き合った。彼らが注いでくれた愛情がどれほど深いものだったか「今ならわかる」
明らかに日本人とは違う外見を持つ孫が、日本人と日本社会に受け入れられ、認められ、愛されるよう。そして誇りと自信を持てるように──。

「厳しさのすべて、俺のための愛情だったんですよね」


くるくるの髪、肌の色、分厚い唇。いじめは日常茶飯事だった。
「あの時代、俺はコンプレックスの塊でね、コテで必死に髪をまっすぐにしたり、一生懸命日本人に近づこうとしてた。自分の髪も唇も大嫌いだった」
 だが負けず嫌いの性分。人前ではどれほど差別的な言葉を投げつけられても平静を装った。そして誰にも見つからぬ場所で「みんなと同じになりたい」と泣いた。
「ばあちゃんは全部わかってたと思います。俺に空手を習わせたのも、強さだけじゃなくてね、勇気だとか逃げない心を身につけさせたかったんだと思う。やられたらやり返しなさい、困難にぶちあたったときは逃げるんじゃなく、立ち向かう勇気を持ちなさい、と。今、俺の軸になってる大切なマインドの多くを叩き込んでくれたのはばあちゃんだった」
 ある日勇気を振り絞り、上級生を力でねじ伏せた。周りの目は一変した。立場も一変した。いじめられっ子からいじめっ子へ。
「でも力で相手に言うことを聞かせても、人に好かれないのはほんとに虚しいことだなと痛感した。どちらの立場も経験して、よし、いい子になろうって(笑)。そもそも人を傷つけるの嫌い、人を楽しませるのが大好きな人間なんだもん。それ以来、自分で言うのもなんだけど、どこにいっても人気者なの」


15歳の時、様々な事情があってナイジェリアに帰国した。旅立ちの日、授業を抜け出して空港に見送りに来た友達は約150人。

「あとで学校問題になったと聞きました(笑)」

 暴動が頻発する首都ラゴス。安全で、平和で、贅沢はできなくとも何不自由のなかった宮崎での暮らしとは、落差が大きすぎた。
 水道水は「当然」飲めない。4キロ先の谷底で汲んできた水を煮沸し、濾過し、さらに煮沸してようやく飲める水ができた。
一家の住まいは、銃を携えた防人が24時間警備に当たる一画にあった。
「父が家のセキュリティと子供たちの教育を最優先に考えてくれていたから、暴動が起きても家の中にいる限りは安全だった」 が、一歩外に出れば町は貧困と犯罪にまみれ、路上生活者たちはその日を生き延びるだけで精一杯の人生を送っていた。物乞いの姿に胸を痛める息子に、父は「一時の同情は本当の助けにならない。お前ができることは、自分の状況に感謝して毎日を精一杯生きることだ」と言った。
無邪気に笑っていられた宮崎での日々が夢のように思えた。

「日本に帰りたい」

懇願するバレンタインに、父は、この国から抜け出す切符は、勉強だけだと繰り返した。
医者ならどの国でも稼げるからと、バレンタインは大学の医学部を目指した。祖父母からの誕生日のプレゼントには参考書を頼み、深夜までローソクの火で勉強した。暗く、ゆらゆら揺れる灯りに、2.0あった視力は たちまち0.5まで落ちた。
イギリスの名門大学の留学試験は最高点を取った。だが制服以外の服さえ買えない経済状態。どうやっても学費が工面できなかった。奨学金制度を探したが無理だった。ならばと日本政府が学費を支援する制度に賭けた。かつて父がその制度で上智大学に留学していたのだ。成績は今度もやはりトップ。だがバレンタインに吉報は届かなかった。

「あとで、その権利を金で買ったやつがいたと聞きました」

こんなに努力をしても這い上がる糸口さえつかめないのか。いったいどうやって希望と救いを見いだせばいいのか。心を折りかけたバレンタインのもとに、事情を知った祖父母から封書が届いた。日本への航空券だった。
「お前は十分頑張った。日本に帰っておいで」
20歳のときだ。

恋い焦がれた日本。東京で暮らし始めたとき、バレンタインはこの国はなんて可能性とチャンスに満ちあふれているんだ、と思った。
「なんという素晴らしい国なんだと。日本で生まれ育った人たちは感じにくいかもしれない。でも死の危険と背中合わせの環境で暮らした俺からしたら、この安全で、その気になれば何でもできるチャンスだらけの国に住めること自体がとてつもない幸運なことなんですよ。だから、やりたいこと、目標が達成できないとしたら、すべて自分の努力不足、責任だと思いました」

アルバイトから始め、外資系大手金融会社でトップ営業に上り詰めた。出世のため、稼ぎを学費につぎ込み通信制の大学で学歴もつけた。
「針に糸を通すような一瞬のパンチの美しさ」に痺れプロボクサーになったのは25歳。フルタイム勤務を終えてからのジム通い。二足のわらじで日本一位まで上った。29歳のときには、銀座近くの勝ちどきに3LDKのマンションも買った。
「あの頃の俺は、そこそこの成功を収めたという満足感があったんです。負けたけれど、タイトルマッチもやった。何もなかった昔の自分からしたら、もう上出来だと」


その頃だった。ノーランカーに番狂わせで敗れ、バレンタインの耳に、細川はここまでだな、という声が聞こえてきた。
「ボクサーとして終わった、と。自業自得だったんです。この程度の練習で勝てるだろうと、相手を甘く見たのが敗因だったから」
自分の情けなさと愚かさに、かつてない悔いと恥を覚えた。

「二度とこんな思いはしたくねぇ、そう心の底から思いました」

はっきりとボクシングとの向き合い方、意識を変えた。バレンタインがボクサーとして覚醒したのは「負けたら引退と決めて」挑んだ日本スーパーライト級王者・岡田博善(角海老宝石)との一戦。人が変わっていた。果敢に攻め、打たれても臆さず突進し腕を振るう。劣勢の中、左目を腫らしながらも逆転を狙い連打を出し続ける。スタミナ不足が弱点だったかつての姿はない。手数にも猛追する様にもかつてない必死さと勝ちへの執念が溢れ出ていた。

結果は大差判定負けだった。
「それなのに、見た人たちから熱くなったよ、感動したよ、って。え、俺、負けたのに……?」

熱くなったよ──。かつて勝った時にも聞いたことがなかった応援団の言葉は、自分自身が初めて得た実感でもあった。

「その時、俺、気づいちゃったの。俺が実は欲しかったのって、本気で生きる、という生き方なんじゃねぇ?って」


11年間、俺は何をやってたんだよ──。
営業トップで、オーダーメイドのスーツを着て、マンションを持って…。なんだよ、そんなの、ただモノがあるだけじゃん。ものを持った分だけ臆病になって守りに入って。なのに、この年で俺、結構すげーじゃんなんて満足して。

「その時、俺、猛烈に思ったんですよ」

俺、ダセぇ…!!!


後編に続く。
 

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#細川バレンタイン #角海老宝石ジム

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