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アクティブラーニングの陥穽に関するメモ

教育の世界で「アクティブラーニング」という言葉を耳にする機会が増えている。最近、小針誠『アクティブラーニング:学校教育の理想と現実』という新書を読んだ。アクティブラーニングに懐疑的な著者が、その歴史、そして、現場から湧き出ている課題について書いている。

さて、アクティブラーニングとは何だろうか。それに関する説明には、例えば、以下のようなものがある。

一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。

溝上慎一『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』東信堂 (2014)

この説明では、アクティブラーニングには〈認知プロセスの外化〉が含まれていることが言及されている。アクティブラーニングは、(ざっくりと言えば、)ただ講義を聴いて、考え理解するだけの学習ではない、のだ。

これに基づき、僕は、アクティブラーニングを従来の一方向的な講義とは異なる要素を織り交ぜたオルタナティブな学習形態もしくは授業形態であると理解している。したがって、一方向的な講義の否定ではない。

冒頭紹介した新書の著者・小針氏も、アクティブラーニング自体について懐疑的であるわけではない(と僕は読み取った)。懐疑的な感情、そして、批判の対象は、過剰なまでの「アクティブラーニング推進」と言えよう。

実はその「推進」の背後には、経済や政治がある。それらからの要望は、政策や各種文書によって我々の住む社会に広がっていく。教育の場合、その典型は「学習指導要領」である。そして、その影響を受けるのは主に初等・中等教育である。

誰にとっても嬉しい政策などないのだろう。「アクティブラーニング推進」もその例に漏れない。例えば、多忙を極める教員への負担増や、アクティブラーニングという形態へなじめない生徒への配慮などが課題として挙げられる。それらの課題は特に、生徒の学力差が大きい、公立の小・中学校で深刻になる。

経済や政治の意向で「推進」される教育は誰のためのものなのか。所々から聞こえる警鐘にも耳を傾けねばならない。

「ディープ・アクティブラーニング」という言葉をしった。それすなわち、

外的活動における能動性だけでなく内的活動における能動性も重視した学習

松下佳代 編著『ディープ・アクティブラーニング』勁草書房 (2015)

のことを言う。ここではその詳細には立ち入らない。関心のある方は、以下の書籍を参照されたい。

さて、上述の「ディープ・アクティブラーニング」は昨今よく耳にする「アクティブラーニング」の拡張版として論じられているものだ。そこでは、「アクティブラーニング」の欠点についても言及されている。3点ある。

〈1〉知識(内容)と活動の乖離
〈2〉能動的学習をめざす授業のもたらす受動性
〈3〉学習スタイルの多様性への対応

まず〈1〉については、グループ活動などを取り入れるにあたり、高次の思考を行わせるための知識(内容)を伝える時間が削られてしまうことを言っている。

続く〈2〉は、活動が構造化されているので、学生の意思で参加しているのかどうか不明である、という点を挙げている。

最後の〈3〉は、アクティブラーニング型授業を好まない、もしくは、なじめない学生への配慮についてである。

それぞれについて、既に対策をとっている教員もいるだろうし、今後、検討せねばならない教員や機関もあるだろう。少なくとも、「アクティブラーニング」は万能ではないことには自覚的になるべきだろう。


P.S. 冒頭の新書『アクティブラーニング:学校教育の理想と現実』についての溝上慎一氏による書評がある。「アクティブラーニング」に関心のある方は参照されたい。

また、「国策としてのアクティブラーニング」についての溝上慎一氏・井上義和氏の対談も非常に興味深い。

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