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朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶[チョン・ジヨン]

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2007年に土曜美術出版販売から刊行した本が入手困難になったため内容を無料公開します。 『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』が2021年秋クオンより刊行されるのを期に、 誤記など少しずつ修…
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#朝鮮近代文学

ただしがき

*本文中で南北分断以前の話をする際には、当時の人々が呼んでいたとおり「朝鮮」と呼び、現在…

nagi
4年前
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はじめに

"おお 鸚鵡[ぱろつと]さん! グツド・イヴニング!" "グツド・イヴニング!" ――親方[おや…

nagi
4年前
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第一部 高普[コボ]卒業まで (一九〇三~一九二二)

 鄭芝溶は一九〇三年生まれで、これは明治三六年にあたります。(芝溶の生年は一九〇二年とい…

nagi
4年前
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第二部 京都留学と帰国後の活動(一九二三~一九三〇年代前半)        一、同志…

    校費でやっと高普を卒業した芝溶の家庭事情では、進学など思いも及びません。就職する…

nagi
4年前
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二、『近代風景』

 しかし、芝溶が詩人として認められたのは、何と言っても『近代風景』に「かっふえ・ふらんす…

nagi
4年前
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三、 ボヘミアンの戯画        1) 「カフェ・フランス」

 芝溶の日本語詩には、それとほぼ同一の朝鮮語詩も残されている場合があります。冒頭で引用し…

nagi
4年前
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四、 日本語詩の意味するもの

 芝溶の日本語詩は文法や言葉づかいのぎこちなさが妙な魅力になっていたりもして興味深いものですが、ほぼ同じ内容を朝鮮語と日本語で書いた詩が十七ほどあり、日本語の作品だけが残っているのは十篇です(*これはこの本を書いた時点での話で、その後日本語作品がいくつも発見されているようが、それは考察に含まれていません)。ここで、彼が日本語で詩を書いた理由を検討してみましょう。まず第一に、当時彼が口語自由詩のお手本にすることのできたものは日本語か英語、または日本語や英語に翻訳されたフランスな

六、朝鮮近代詩に初めて登場した都会   1) 「悲しい印象画」

 朝鮮モダニズム詩を語るとき、よく一九三○年代の作品が挙げられます。喫茶店、カフェ、百貨…

nagi
4年前
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2)「幌馬車」

 丁度いま通る場所は時計やの店の前、昼間は軒したにかけられてゐる雲雀が都会の大気にややふ…

nagi
4年前
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3) 「郷愁」

古[いにしえ]の物語を囁[ささや]く小川は 野原の東の果てをめぐり 夕まぐれ 斑[ぶち]の…

nagi
4年前

七、劇的転身--プロテスタント、そしてカトリックへ  1) 同志社教会

 同志社(当時の同志社には大学とそれに付属する予科、大学院の他に専門学校、中学校、女学校…

nagi
4年前
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(2)河原町カトリック教会

 正式にプロテスタント信者になった数カ月後、芝溶はなぜかカトリック教会を訪れます。一九三…

nagi
4年前
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(3)明洞[ミョンドン]聖堂

 天使ガブリエルがマリアに受胎告知をする場面の聖画を『鄭芝溶詩集』(一九三五)の表紙に使っ…

nagi
4年前
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八、詩人の素顔            1) 父親として

 時代的には帰国後の話が中心になりますが、ここで少し詩人の人柄について触れておきます。芝溶はあるインタビューの席上、「十年の間に五男二女をもうけましたが、ますます可愛いくなります」(「文人との愚問賢答」『女性』一九三七)と言っていますが、彼の子供のうち、男の子二人、女の子一人は幼くして亡くなったようです。一番最初の子供は女の子で、芝溶が京都に留学している時に生まれ、数年後に病気で亡くなりました。頑固な封建主義者であった芝溶の父は初孫に男の子を期待していたのに女の子が生れたもの