はじめに

"おお 鸚鵡[ぱろつと]さん! グツド・イヴニング!"
"グツド・イヴニング!"
――親方[おやかた]御気げん如何です?――

欝金香[ちゆうりつぷ]嬢さんは
今晩も更紗のかあてんの下で
お休みですね。

私は子爵の息子でも何でもない。
手があんまり白すぎて哀しい。

私は国も家もない。
大理石のていぶるにすられる頬が悲しい。

おお異国種の仔犬よ
つまさきをなめてお呉れよ。
つまさきをなめてお呉れよ。
(「かっふえ・ふらんす」全文、『近代風景』一九二六年十二月)

 これは昭和の初めに京都の同志社大学で「てい・しよう君」と呼ばれていた、満二十三歳の色の黒い小柄な朝鮮人留学生が日本語で書いた詩です。てい君は眼のきらきらした、甲高い声でけたたましくしゃべる快活な青年でした。彼は既に結婚しており故郷では妻が彼の帰りを待っていましたが、これは当時の朝鮮人留学生としては珍しいことではありません。てい君が北原白秋の詩を愛読したであろうということは、「欝金香[ちゆうりつぷ]」「更紗」「大理石」などの語彙からも推測がつきますが、事実、彼は京城[けいじょう](現在のソウル)で高等普通学校(普通学校を卒業した学生が通う中等教育機関。以下、高普[コボ]と略称)に通っていた頃から白秋に傾倒していて、校内誌や、近隣の学校に通う仲間達と始めた謄写版の雑誌に白秋の童謠をまねた作品を朝鮮語で発表し、周囲から文才を認められていました。
 予科を終え英文科に進んだてい君は、白秋主宰の雑誌『近代風景』創刊号(一九二六<大正十五>年十一月)の「編輯後記」に「一般投稿家のために新年号から詩歌の投書欄を設け、よき詩人歌人の誘導に努める。奮って投稿されんことを望む。そのうち最も優秀なる作者は、追つて本欄に紹介し、一度紹介したら、これまたその作者のために責任を持つことにする」とあるのを見て、ちょっと心を動かされました。そして日本語で書いた詩を、思いきって送ってみようと思いました。てい君は、書かれてある投稿規定にしたがって二十日の締め切りに間に合うよう、東京市下谷区谷中天王寺町十八「近代風景編輯所」あてに、「一人十篇以内」の作品を郵送しました。ところがなんと、その次の号に、てい君の書いた詩「かっふえ・ふらんす」が既成詩人の作品と同じ大きさの活字の二段組みで掲載されていて、しかも「編輯後記」には、次のような文言すらあったのです。「それに本号も例によって、生々溌剌とした実力ある新進がそれぞれ、特色ある詩風を以て目醒ましい活躍を示している。そのうち鄭芝溶、青島友美、 長江道太郎、 塩原天鈴の四君は、数百篇の投稿の中から厳選したものであるが、それぞれのいい素質を尊重し、今後の精進を促すために特に優待して本欄(既成詩人と同じページという意味、引用者)に入れたのである」。署名こそないものの、白秋が書いたに違いありません。てい君は呆然としました。憧れの大詩人が、自分を一人前の詩人として待遇してくれたのです。しかも、『近代風景』は、「実質的に言つて現代日本詩壇の最高水準」(創刊号「編輯後記」)の文芸誌です。頭がくらくらしました。うわあーっと大声で叫んで飛びはねたい気持でした。「俺は詩人として立てるかも知れない」。彼はその夜、寝つけませんでした。
 噂はすぐ広まりました。翌日から学校に行くと、日本人の同級生も朝鮮人の留学生仲間も、あまり親しくなかった学生までが、おい、聞いたよ、すごいじゃないかと、てい君の肩をたたきます。消息は間もなく故鄕の文学青年達にも届きました。
 こうして華やかな登龍門をくぐったてい君は、引き続き『近代風景』に日本語の詩を投稿するかたわら朝鮮語の雑誌にも活発に詩を発表し、斬新かつ繊細な表現によって朝鮮の人々を瞠目させました。彼は一九三○年代後半には朝鮮で最も影響力の強い詩人となり、詩人志望の青年達が競ってその作品を模倣するようになります。朝鮮(韓国)語の詩において、彼を超える言語感覚を示した詩人は、その後も現われていません。

 今から彼の名を、朝鮮語の発音にしたがって鄭芝溶(チョン・ジヨン、一九〇三?~一九五○?)と呼ぶことにします。芝溶の生涯を語る前に、彼の同時代人が彼をどう評価していたのか見ておきましょう。
 芝溶の作品に関しては『鄭芝溶詩集』(一九三五)が出版される以前にも、金起林[キム・ギリム](詩人・評論家、一九○八~?)が、「実にわが国の詩に現代の呼吸と脈拍を吹き込んだ最初の詩人」(「一九三三年詩壇の回顧」)という評価をしていますし、また、英文学と朝鮮文学の研究者であった梁柱東[ヤン・ジュドン](一九○三~七七)は「現詩壇の作品のうち、フランス語や英語に翻訳して、彼らの超現実的芸術傾向、その貴族的水準に並びうるのは、この詩人を措いて他にないであろう」(「一九三三年度詩壇年評、『新東亜』、一九三三年十二月号)と言っています。
 一九三五年十月には『鄭芝溶詩集』が出版され、熱狂的な歓迎を受けました。評論家・金煥泰[キム・ファンテ](一九○九~一九四四)は「彼の名声は既に定まった。彼の天才を敢えて疑い、否定する者は皆無である(「鄭芝溶論」)と書き、英文学者・李敭河 [イ・ヤンハ](一九○四~六三)は「あの貧しく度量の狭い」朝鮮語が芝溶の手によって「フランス語のごとき」美しい言葉になったと言い、「『我々もついに詩人を得たのだ!』と叫べるだけの詩人を得、またここに初めて我々は、朝鮮語の無限の可能性を具体的に知ることとなった」(「待ち望んでいた芝溶詩集」)と歓喜しました。「これから詩を書こうとする人々が必ず『鄭芝溶詩集』を勉強することを、我々は知っている」と英文学者・評論家の崔載瑞[チェ・ジェソ](一九○八~六四)が書いたように、朝鮮の青年達が母国語で詩を書こうとする時、『鄭芝溶詩集』は必読書であり、基本的な教科書のような役割を果たすようになりました。
 一九三九年八月には雑誌『文章』が創刊され、芝溶が詩部門の選者になったことにより、彼の位相はさらに高まります。『文章』十二号(一九四○年一月)の座談会「文学の諸問題」で梁柱東は、芝溶の詩風が詩壇を席捲していまい、新人が皆、芝溶の模倣になってしまったと指摘しています。そして『文章』の推薦制度に関して李源朝[イ・ウォンジョ](評論家、一九○五~五五)は「選者を代えた方がいいでしょう。傾向の違う人が選をするべきだ。そうでないと、エピゴーネンばかり生み出すことになってしまいますから」と発言しました。すなわち、この時期、朝鮮ではエピゴーネンに見えるほど芝溶の影響を強く受けた若手詩人が続出していたのです。解放(すなわち日本の敗戦)後、芝溶を猛烈に罵った評論家・趙演鉉[チョ・ヨンヒョン](一九二○~八一)ですら、芝溶が「一時期、朝鮮の詩聖と」(「手工芸術の運命」、一九四八)呼ばれたことを認めています。芸術派詩人を罵倒するプロレタリア文学の評論家達も、芝溶の詩が言語芸術として優れているという事実に関しては、誰も否定しませんでした。少なくとも一九三○年代後半、朝鮮詩壇において芝溶の影響力は絶対的なものであったと言って過言ではありません。
芝溶の作品は、彼が一九五○年頃に北へ去ったという理由で大韓民国においては長い間発禁になっていましたが、多くの人の努力により一九八八年に解禁され、今では教科書にも載っています。しかし、一九八○年代の韓国民主化運動の流れの中で、多くの評論家達はプロレタリア文学とブルジョア文学を対立したものととらえていました。その単純すぎる二項対立の図式において「進歩的」な人々はプロレタリア文学を過大に評価し、鄭芝溶の詩のように政治的主張を読み取りにくく、かつ芸術的に優れた作品を、不当に過小評価し続けました。この図式は、今に至るまで完全に払拭された訳ではありません。
 朝鮮では一九二五年から三四年頃までがプロレタリア文学の全盛期で、『鄭芝溶詩集』が発行された一九三五年にはプロレタリア文学の影響力に陰りが見え始めていました。そのためプロ文学陣営は、鄭芝溶の芸術的な詩が青年達の人気を集めていることに対して危機感を持ち、敵意を剥き出しにせざるを得なかったのです。芝溶に対する批判は、この時期、プロレタリア文学の旗手・林和[イム・ファ](詩人・評論家、一九○八~五三)によって始まりました。林和は芝溶を「技巧派」と呼び、「技巧派は詩の内容と思想を放棄する」(「曇天下の詩壇一年」、一九三五年十二月)と非難します。そして、近年に至るまで韓国の評論家、研究家が芝溶の詩について下した否定的な評価の大半が、林和の評価のバリエーションに過ぎませんでした。誰もがこう言ったのです。「確かに言語芸術としては優れている。しかし内容がない」。
 お気づきかも知れませんが、これは日本で、北原白秋に関してしばしば下される評価に酷似したものです。「白秋は優れた言語感覚を示したが、その詩には内容がない、あるいは、社会性がないではないか」という意見は、天才詩人と言われた白秋の位置づけを今でもあやふやで不安定なものにしています。そのため私は「白秋をどう評価するべきか」という、とてつもない難問にぶつかることになりました。白秋に対する態度を定めない限り、私は芝溶の作品に関しても判断を下せないのです。これは換言すれば、朝鮮(韓国)文学史において芝溶の占める場所が、日本文学史で白秋が占めるそれに似通っているということでもあります。この事に関しては後で触れることになるでしょう。(この本の結論を導き出すにあたっては、白秋作品に対する大岡信氏と村野四郎氏の優れた洞察を特に参考にしました。この場を借りて偉大な先達に感謝の意を表したいと思います。)
 ともかく芝溶は白秋を師と仰ぎ、私淑していました。白秋に私淑した詩人の大部分は、白秋の圧倒的な個性に押し流されるように詩史から消えてしまいましたが、芝溶は韓国(朝鮮)近代詩の原点ともいえる大詩人になったのです。
 これから私達は、二十世紀の初頭に朝鮮半島の内陸部に生まれた小さな男の子が朝鮮最高の詩人になってゆく過程に立ち会います。それと同時にこの詩人の眼を通して、日本文学の近代化よりもさらに圧縮された、目まぐるしくも過酷な時間の中で朝鮮半島の言語が近代化され、「文壇」が成立する現場を目撃することにもなるでしょう。
 詩人の生涯を辿りながら、ときどき大幅に脱線して、彼の作品を詳細に読みたいと思います。しかし、もともと日本語で書かれた作品は良いとしても、朝鮮語の詩を翻訳するのはたやすいことではありません。翻訳の名手と呼ばれた金素雲[キム・ソウン]ですら、芝溶の詩「玻璃窓」を訳してはみたものの、自分の日本語訳では「詩情の半分も活かされてはいない」と告白しているほどです(『朝鮮詩集 中期』興風館、一九四三)。そして実際、芝溶の作品には古語なのか造語なのか方言なのか、韓国人の研究者でも意味の分からない言葉がたくさんあるのです。それは、たとえてみれば白秋の「邪宗門」などを外国語に翻訳する作業に似た難しさでしょう。繊細で感覚的な詩であるほど翻訳は難しいのですが、韓国語を知らない読者には日本語にしてお目にかけるより他はありませんから、多少の不手際はご容赦下さい。(この本の中で、「原文日本語」と注記したものと巻末にまとめた日本語作品集は芝溶が日本語で書いたもので、それ以外は私が韓国語を日本語に翻訳したものです)。