三、 ボヘミアンの戯画        1) 「カフェ・フランス」

 芝溶の日本語詩には、それとほぼ同一の朝鮮語詩も残されている場合があります。冒頭で引用した「かっふえ・ふらんす」は日本語で発表されたものですが、朝鮮語による作品は、日本語作品に無い前半部が付け加えられています。次に引くのは、朝鮮語作品を私が日本語に訳してみたものです。朝鮮語では「カペプランス」と発音するのですが、カ、ペ、プは息を吐く音を伴って発音され、「かっふえ」の、ふうわりとした柔かさはありません。それは、もっと硬質で、モダンで、洗練された印象を与える音です。もわっとした大正浪漫の温かさのようなものが、ハングル表記の「カペプランス」には感じられません。それで、「かっふえ・ふらんす」ではなく、カタカナの「カフェ・フランス」にしてみました。ここでは、この詩の背景を詳細に見てゆきたいと思います。

移植された棕櫚[しゅろ]の下に
常夜灯は歪んで。
カフェ・フランスへ行こう

ルバシカを着た奴だとか
ボヘミアンネクタイの奴もいて
痩せこけた男が先頭に立つ

霧雨がヘビの目みたいに降る夜
ペイブメントに明かりはゆらめき。
カフェ・フランスへ行こう

こいつの頭は色を塗った林檎[りんご]
あいつの心臓は虫喰いの薔薇
濡れツバメみたいな男が飛びはねてゆく

     *

『おお鸚鵡[ぱろっと]さん! グッドイーブニング!』

『グッドイーブニング!』(やあ元気かい?)

欝金香[ちゆうりつぷ]さんは今夜も
更紗のカーテンの陰でうたたねですか

僕 子爵の息子でも何でもない。
手が妙に白くて悲しい

僕には国も家もない
大理石のテーブルに触れる頬が悲しい

おお異国種の仔犬よ
僕の足をなめてくれ
僕の足をなめてくれ

「カフェ・フランス」『学潮』一号、一九二六年六月、拙訳)

このカフェは明るい雰囲気のコーヒー店ではなく、ちょっと頽廃的な、女給のいる洋風の飲み屋です。棕櫚、欝金香、更紗、大理石などは白秋や木下杢太郎の愛用した南蛮文学の語彙ですから、どうやらこの詩は、明治末に白秋達がカフェを舞台に繰り広げた芸術運動「パンの会」との関連において考える必要がありそうです。

「愛の部屋でぼくはいつも 絵をかいていた/いとしい人 君をモデルに/愛し合った 君とぼくの 二十歳のころ/(…)/すいた腹をかかえながら/虹のおとずれ 夢見ていた/仲間たちと キャフェの隅で/ボードレールやベルレーヌの 詩を読んでいた」これはシャンソン「ラ・ボエーム」を美輪明宏が日本語で歌う時の歌詞ですが、ここには現代人の持つ最も通俗的なボヘミアンのイメージ、すなわち貧しい芸術青年というイメージが端的に現われています。この種の芸術ボヘミアンのイメージは十九世紀の初めにパリで生まれ、十九世紀末に通俗化して世界各地に伝播しました。それを真似て日本で繰り広げられたのがパンの会の芸術運動であり、芝溶はパンの会の芸術家達に憧れつつ文学修業を始めた世代に属します。この詩のタイトルが「カフェ・フランス」なのは、この詩に登場する青年達が十九世紀パリのボヘミアンの末裔だからです。

<カフェ>

移植された棕櫚の下に
常夜灯は歪んで。
カフェフランスへ行こう

この詩句から連想されるのは、フランスの作家アンリ・ミュールゼ(Henri Murger、 一八二二~六一)の小説『ボヘミアンの生活風景』をプッチーニがオペラにした「ラ・ボエーム」です。ボヘミアン=若く貧しい芸術家というイメージを決定的なものにし、通俗化したのはミュールゼの小説でした。この小説は一八四五年から四九年にかけて新聞に連載され、四九年には芝居になって大成功を収めたのですが、それをプッチーニがオペラにして一八九六年トリノで公演したことが、右に述べたようなボヘミアンの意味を普及させるきっかけとなりました。(カフェ文化に関しては主として今橋映子、『異都憧憬―日本人のパリ』(柏書房、一九九三)に依拠していることを、特に記しておきます)。
すなわちカフェに集う芸術青年達の原型は、「ラ・ボエーム」の舞台となった十九世紀のパリに求められるのです。オペラ「ラ・ボエーム」では若くて貧乏な詩人と画家と音楽家と哲学者が同じ家で暮らしているのですが、あるとき金持ちの家で死にかけている鸚鵡のために音楽を演奏して金を稼いだショナールは、仲間達に金を分けてやりながらカルチエラタンにあるカフェモミュスに行こうと提案します。「ほら、カフェはこのすぐ近くだ/行こう、モミュスへ! (Vedi il caffee vincin/Audiam la da Momus!)」、「モミュスへ!/行こう!(La da Momus! Audiam!)。」(プッチーニ、『ボエーム』、 音楽之友社、一九八七)。 このオペラが日本で最初に上演されたのがいつだったのかは分かりませんが、少なくとも一九二○年頃に相馬黒光は東京帝国劇場でロシア歌劇団による公演を見ています(相馬黒光、『黙移』、女性時代社、一九三九)。芝溶が「ラ・ボエーム」自体を意識していたかどうかは定かではありません。しかし、こうしたカフェやボヘミアンのイメージは、明治末期から日本や朝鮮の芸術青年の間に広まっていました。
 オペラ「ラ・ボエーム」が公開された頃、すなわち十九世紀末にはボヘミアン生活は通俗化してカフェやキャバレーでブルジョアが疑似体験を楽しむ対象になっていました。そしてその当時パリに在住していた外国人、つまりイギリス、アメリカ、日本からやって来た芸術家達――その多くは画家でした――がそうした通俗的ボヘミアンの生活様式を自国に持ち帰ったのです。日本では一八九三年に帰国した西洋美術史研究家の岩村透(一八七○~一九一七)が『巴里の美術学生』(一九○三)を著してパリのカフェを描写しながら、日本では芸術家が集って語り合う場がないと嘆いてみせました。このエッセイは当時の芸術家のタマゴ達に甚大な影響を与え、さらに黒田清輝、森鴎外、上田敏、堀口大学、高村光太郎(高村は岩村の弟子であり、後にパンの会にも参加しています)、永井荷風、島崎藤村などヨーロッパの空気を吸ってきた画家と文学者達が現地の暮らしや芸術家達の動向を伝えて青年達の憧れをかきたてたことが、芸術運動の根拠地としてのカフェを日本に誕生させる契機になりました。
 ところでカフェ・フランス(のモデルになったカフェ)はどこにあるのかという問題から検討してみましょう。朴泰遠[パク・テウォン](小説家、一九○九~八六)の『小説家仇甫[クボ]氏の一日』に見えるごとく、一九三○年代には朝鮮半島でも明洞[ミョンドン]や鍾路[チョンノ]の喫茶店やカフェが小説の重要な舞台になりました。しかし一九二○年代前半の京城には、まだ喫茶店もカフェもほとんどありません。日本から輸入された喫茶店、バー、カフェなど新しい遊興施設が京城にも出来始めたのは、二○年代後半からのことです。(金炳翼、『朝鮮文壇史』、一志社、一九七三、一五四頁)。 金東仁[キム・ドンイン](小説家、一九○○~五一)の証言を聞いてみましょう。「白潮派はボヘミアンに似たところが多かった。(…)もしその頃、今みたいなカフェが流行っていたら彼らは当然カフェの定連になっただろう。彼らは妓生<キーセン>屋に通った。」(「文壇回顧」、『金東仁評論全集』、 三英社、 一九八四、三九三頁)。二○年代後半の京城にカフェが登場する文学作品としては廉想渉[ヨム・サンソプ](小説家、一八九七~一九六三)の「愛と罪」(一九二七年八月から翌年五月まで東亜日報に連載)がありますが、このカフェは当時の日本人街だった南山の麓にあり、常連客もほとんど日本人です。朝鮮語「カフェ・フランス」は『学潮』一九二六年六月号に発表されていますから、この詩の執筆当時まだ京城にカフェが普及していなかったという点や、芝溶が京都留学中であったという点、そして詩的話者が「僕には国も家もない。」と深い疎外感を表しているということなどから見てこの詩の舞台は日本にあるカフェだと考えるのが自然でしょう。明治末に東京にできたカフエ・プランタンやメイゾン鴻の巣などは上品な西洋料理店でしたが、昭和初期に流行ったカフェは女給がサービスをする、そして時にはその女給が売春婦にもなる、洋風の飲み屋でした。そして廉想渉の小説『万歳前』にもあるように、華麗な化粧の女給達は学生達が最も声をかけやすい女性であり、彼らの恋愛の対象になることも少なくありませんでした。

ルバシカを着た奴だとか
ボヘミアンネクタイの奴もいて
痩せこけた男が先頭に立つ

<ルバシカ>

 中村彝[つね]がルバシカを着た盲目のロシア青年エロシェンコ(Vasilii Eroshenko、 一八八九~一九五二、一九一四年から日本に滞在)を描いた肖像画はよく知られていますが、ルバシカはエロシェンコにとって普段着に過ぎません。北原白秋もルバシカ姿の写真が残っています。この衣装自体が思想的な意味合いを持っていたわけではありません。
 しかし昭和初期にルバシカは左翼思想のシンボルというニュアンスを帯びるようになりました。左翼的な劇団であった築地小劇場の役者達はロシアの学生帽をかぶりルバシカを着て長靴をはいていたし、観客達も似たような格好でした。(浅見淵、 『昭和文壇側面史』、 東京:講談社、一九九六、七五頁)。 アナキストだった壷井繁治や朴八陽も、プロレタリア文学の旗手・金基鎮[キム・ギジン](評論家、小説家、詩人、一九○三~八五)もルバシカを着ました。廉想渉が、無産文学の発芽期に人々が「ボタンがなくて、かぶって着る(…)物を着て、黒い糸で編んだベルトの端にふさのついたのをぎゅっとしめて垂らしていた」(『廉想渉全集』十二、民音社、一九八七、二三八)と描写しているのはルバシカのことに違いありません。「カフェ・フランス」においても、ルバシカが左翼思想に対する傾倒を表していると解釈してよいでしょう。 ただし、この詩に出てくるルバシカ男は後の「こいつの頭は色を塗った林檎」に対応しており、ファッションで赤い思想を装っているに過ぎません。ある時期には、マルキシズムは流行の意匠でもあったのです。一九二九年にヒットした西条八十作詞の「東京行進曲」の四番の歌詞は、当初「長い髪してマルクスボーイ/今日も抱える赤い恋」でした。「八十は、中身は白いくせに上っつらだけ赤い『赤大根』たちを嗤いたかったのだ」(斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて』、岩波書店、二○○四、九二頁)

<ボヘミアンネクタイ>

 ボヘミアンネクタイは幅一五センチ長さ一二○センチほどの布で、胸の前に蝶結びをするものです。ボードレールが愛用したことでしられ、日本ではパリ帰りの画家達がつけていました。また明治末期にフランスから帰国した永井荷風はボヘミアンネクタイで銀座を闊歩して注目を浴びていますし、白秋や萩原朔太郎もこれを愛用していたようです。東京に遊学していた朝鮮人青年達もそれを京城に持ち帰りました。「東京から帰った留学生達は元気良くボヘミアンネクタイと薄いズボンを身につけてマドロスパイプをくわえて歩いていた」(洪暁民、『朝鮮文壇側面史』)。 梁柱東に至ってはルバシカにボヘミアンネクタイをしめ、自分で考案した靴をはいた珍妙な姿で東京や京城の街を歩いたそうです。(梁柱東「金星時代」)。ボヘミアンネクタイは芸術愛好家の象徴だと言っていいでしょう。
 二連目と四連目は対応しています。すなわちルバシカを着た奴の頭が 「色を塗った林檎」であり、ボヘミアンネクタイの男の心臓が虫食いの薔薇です。「色を塗った林檎」という比喩は前述のように、口先だけで実行の伴わない似非[えせ]社会主義者を意味しています。ナップ(NAPF、全日本無産者芸術連盟)やカップ(KAPF、朝鮮プロレタリア芸術家同盟)が弾圧によって壊滅的な打撃を受ける前には、左傾を装うことも一種の流行であったことを想起しましょう。これは日本の例ですが金子光晴は、「文学は、プロレタリアの花やかな初登場の時代で、ジャーナリズムは、左翼作家に席捲されていた。(…)詩人の世界では、アナーキスト全盛だった。(…)僕らはもう、どんな発言権もなかったし、どんな作品を書いても、頭からみとめられなかった」と書いています(金子光晴「詩人」『作家の自伝一三 金子光晴』、日本図書センター、一九九四、一三八~一三九)。 金子は、文壇に復帰したければアナかボルに転向しろ、と友人に勧められています。こういったファッションだけのマルクスボーイと同様に、虫食いの薔薇も、一見華やかなようでいて中身は腐りかけている似非芸術家の姿です。
 この詩に関してはブレイクの「病める薔薇(The sick rose)」との関連が韓国の研究者によって既に指摘されています。ブレイクのこの詩は佐藤春夫の『田園の憂欝」(一九一九)に「おお薔薇[そうび]、汝病めり!」というフレーズとして引用され、強烈な印象を与えていたので、一般になじみのあるものでした。

霧雨がヘビの目みたいに降る夜
ペイブメントに明かりはゆらめき。
カフェフランスへ行こう

濡れたペイブメントに映る灯りはぬらぬらと揺れて不安定な感じを与えます。ヘビの眼は、朝鮮語では細さを表現するのによく使われますが、ここでは雨の夜の不安をいっそうかきたてる役割を果たしています。

こいつの頭は色を塗った林檎
あいつの心臓は虫喰いの薔薇
濡れツバメみたいな男が飛びはねてゆく

ツバメのように身軽で軽薄な男は、羽が濡れて飛べない鳥のようにみじめな姿で雨の中を走ってゆきます。

ここまでが前半部で、*という記号によって場面が転換し、後半はカフェの内部と話者の独白で成り立っています。

『おお鸚鵡[ぱろっと]さん! グッドイーブニング!』

『グッドイーブニング!』(やあ元気かい?)

 ゴチックを使ったのは人間とは違うオウムの声を視覚的に表わしたものです。朝鮮語原文ではハングルでパロットと書いた後に(鸚鵡)という漢字を併記しています。(日本語の「かっふえ・ふらんす」では「鸚鵡[ぱろつと]さん」と書いているし、普通はカタカナで書かれるカフェ、カーテン、テーブルといった外来語をわざわざひらがなにして南蛮文学風の「異国情調」を漂わせています)。朝鮮語の作品においてこうした南蛮文学の語彙に出合うと私は何とも不思議な懐かしさを感じるのですが、現代の韓国人にとっては出所のよく分からない、ミステリアスな言葉であるようです。

欝金香[ちゆうりつぷ]さんは今夜も
更紗のカーテンの陰でうたたねですか

<欝金香>

 欝金[うこん]は英語でターメリックであり、カレーなどの香辛料として知られています。日本には平安初期に香料として到来したので、文字通りの欝金香[うこんこう]です。白秋も、色を表現するためにしばしば欝金という言葉を使っていますが、唐詩「公子行」(劉延芝)には若い女性の欝金香さんが登場します。「娼家美女欝金香」。 美しい娼婦が服に欝金の香りをたきこめているのでしょう。(吉川幸次郎、 三好達治、 『新唐詩選』、 岩波新書、一九五二、一六九~一七四頁) つまり、欝金香は妖艶な美女のイメージに結びついています。
 他方で、欝金香にはチューリップという意味もあります。白秋の使用例では作品によって欝金香という漢字にうこんこうとルビをふっているのもあるし、チューリップとしているものもあります。「カフェ・フランス」においては、もちろんチューリップなのですが、ハングルで単にチューリップと書くより、画数の多い漢字の形を詩人は愛したのです。欝という字に華麗で高貴な金、かぐわしい香の結びつきは、まるで異国の香気(Parfum Exotic)を愛した元祖ボヘミアン(?)ボードレールの『悪の華(La Fleurs du Mal)』や 『憂欝と理想(Spleen et Ideal)』と同じ構造だと言えましょう。
 そう考えれば、「カフェ・フランス」の「欝金香さん」も、実際の花ではなくカフェの女給を表わしていると見るのが自然ではないでしょうか。春の花のように若く可憐な女給が、夜遅いカフェの暮らしにまだ慣れなくてカーテンの陰で居眠りしていると解釈すれば、華やかなうちにも頽廃的なカフェの雰囲気が伝わって来るでしょう。芝溶の『揺籃』時代の仲間である金華山[キム・ファサン](評論家・詩人、一九○五~?)は「悪魔道――あるダダイストの日記より」(一九二七)で「カフェ・フランス」をパロディーをしていますが、そこには「移植した棕梠の木。歪んだ長命灯。『おお! 俺に酒を下さい! チューリップお嬢さん――酒。酒。酒。酒。酒。」という一節があり、金華山も欝金香を女給だと見ていたことが分かります。

<更紗>

 サラサは元来ポルトガル語で、更紗は日本でつくられたあて字です。白秋は処女詩集『邪宗門』初版に更紗を使いましたが、これは装丁の歴史においても画期的な出来事です。白秋は短詩集のシリーズに「印度更紗」と名づけるほど、更紗を愛していました。棕櫚も『邪宗門』に何度も登場していますが、これらはいずれも異国的・南国的な情緒を感じさせる単語です。

僕 子爵の息子でも何でもない
手が妙に白くて悲しい

僕には国も家もない
大理石のテーブルに触れる頬が悲しい

<白い手>

 同志社時代の芝溶は、経済的に豊かではありませんでした。この一節は、金持ちの息子ではない話者が、カフェで酒を飲む自分の矛盾した行動を噛みしめる場面でしょう。ここでの白い手は労働をしない知識人階級を意味しています。朝鮮語の白手[ペクス]はふつう、失業者という意味ですが、この詩の白い手(ヒンソン)はそれとは関係ありません。『白き手の猟人』(三木露風)という言葉を聞けばふつう連想するのは趣味で狩りをするヨーロッパかロシアの貴族でしょう。萩原朔太郎は『卓上噴水』(一九一五)という雑誌を始めるにあたり「私たちは貴族である。ぜいたくで手は白くなめらかで、労働を知らない。それが誇りである」と宣言しました。また、リルケの『マルテの手記』はデンマーク貴族出身の若き詩人であるマルテがパリにある国立図書館で自身の清潔な手(白い手とは言っていないが)をながめながら、自分は貧しく洋服や靴はすり切れてはいるものの、清潔な手を持っているから良家の子弟であることが証明できると考える場面があります。「なぜならこれはそれでも出身の良い手、毎日四、五回は洗う手なのだ」。手にまつわるこうしたイメージはどこから始まったのでしょう。
 社会主義を唱えた木下尚江は一九○三年十月、非戦論演説会に参加しました。労働運動家の片山潜が「戦争を好む者は皆手の白い遊民である。 諸君! 手を出してみよ!」と叫んだとき、尚江は思わず手を隠しました。「其の瞬間に僕は『社会主義を主張する資格が無い』と云ふ心の叫びを聴いた。―僕も実に手の白い遊民である」。(木下尚江、 『墓場』)(『筑摩現代文学大系 五 徳富蘆花・木下尚江・岩野泡鳴集』、 筑摩書房、 一九七七、一九七~一九八頁。 山極圭司 「木下尚江論」< 『現代日本文学大系 九 徳富蘆花・木下尚江集』、 筑摩書房、 一九七一>も参照のこと。)「カフェ・フランス」の白い手はこれと同じです。
 また別の例を見てみましょう。「手の白き労働者こそ哀しけれ。/国禁の書を、/涙して読めり」。これは石川啄木の親しい友人であった歌人、土岐哀果[ときあいか]が一九一一年に発表した短歌です。(『創作』、一九一一年六月号。 『日本近代文学大系 五五 近代短歌集』、角川書店、一九七三、一七○頁から引用) 「国禁の書」とはクロポトキン、あるいは幸徳秋水の著作だろうと思われます。哀果は啄木にクロポトキンの英訳本を貸して読ませた人物ですが、ここで「手の白き労働者」とは、当時新聞社に勤めていた哀果自身や啄木のような、知識人でありながらも裕福ではなく、つらい労働をする人を指しています。哀果はまた、大正四(一九一五)年三月に出版した『街上不平』に「手」というタイトルで次のような詩を書いています。「われはつねにまことにわが労働者のうへに、/一掬の涙を流す、―/その境遇、その運命、/その智識、/その思想、その感情。/しかり、その生活全体のうへに。//されど、また、われはつねにためらひて、/「手をさしいだせ、その手を見せよ。」/かくわれみづからにむかひて叫ぶなり。//手をさしいだせ、その手を見せよ、 ―/げに、かく叫びて、われは/いささかの躊躇もなく、すこしの愧かしさもなく、/このわが両手をわれとわが面前にさしいだしうべきか/ああ、そはあまりに白く、あまりにしなやかにして/ただペンを握らんのみのたわやかさなるを。(…)」(前掲書四五三頁の補注から引用)。
 どうやら「白い手」にはもっと古い歴史があるようです。おそらくこういった白い手のイメージは、ツルゲーネフ(一八一八~八三)に由来するものと思われます。ツルゲーネフの散文詩に一九二三年十一月十四日付『東亜日報』に金東鎮[キム・ドンジン]の翻訳で小説として紹介された「労動者と手の白い人」という作品があります。一八七八年に書かれたこの詩の前半は、労働者と手の白い人が対話する場面です。なぜやって来たのかとの労働者の問いに対して「手の白い人」は、自分は労働者達の同志であり、彼らのために闘争をして監獄に入れられていたのだと語ります。後半はそれから二年後に、二人の労働者が話し合っている場面です。労働者や農民のために官憲に抵抗したという理由で「手の白い人」が絞首刑になったらしいと、彼らはひと事のように噂しあっています。「遊んで食ってる奴等なんぞ、いなくなくったって構わねえ」。
 もちろん、当時のインテリ青年達は日本語あるいは英語でツルゲーネフの作品に接することも容易でした。『白潮』創刊号(一九二二年一月)と二号(同年五月)はツルゲーネフの散文詩を羅彬[ナサン](羅稲香[ナ・ドヒャン]、小説家、一九○二~二六)の翻訳で載せているし、『創造』一九二一年五月号も岸曙[アンソ](金億[キム・オク]、詩人・評論家、一八九三~?)訳の散文詩を掲載しています。芝溶と同い年の蔡万植[チェ・マンシク](小説家、一九○二~五○)も一九二○年前後にツルゲーネフを愛読していました。『朝鮮日報』は一九三三年八月二二日から二六日にかけてツルゲーネフ没後五○年記念の特集をしていますが、そこで洪暁民[ホン・ヒョミン](評論家・小説家、一九○四~七六)が「文学青年になりそめの頃にはたいてい、ツルゲーネフの作品を読んだ」と書いているように、二○年代の文学青年達はみなツルゲーネフを読んだのです。散文詩に関しても、岸曙は「私がツルゲーネフという名を聞き、その作品 「On the Eve」と 『散文詩集』を知ったのは、全的に春園[チュノン]先生(李光洙[イ・グァンス]のこと。訳注)のおかげだった」 (「『前夜』の深き感銘」、 『朝鮮日報』一九三三年八月二二日付)と書いているし、李鍾鳴[イ・ジョンミョン]が、「私が初めてツルゲーネフを知ったのは、一九二五年頃だった。生田春月訳のその散文詩集を読み、私はいっぺんでこの文豪に降参してしまった」と書いています。生田春月翻訳のツルゲーネフ『散文詩』が新潮社から出版されたのは一九一七年です。若い頃ツルゲーネフを愛読した人達は一九三三年八月二二日、ツルゲーネフ没後五○年の記念集会を「楽浪パーラー」で開き、異河潤[イ・ハユン](詩人・英文学者、一九○六~七四)が司会をしていますが、芝溶もこれに出席しており(『朝鮮日報』一九三三年八月二四日付記事「ツルゲーネフ没後五○年記念祭」)、 芝溶が一九二五年に京都で書いた詩「幌馬車」に「その前夜」という言葉が見えることから、芝溶もまたツルゲーネフに関心を抱く青年の一人であったと断言してよいでしょう。先に挙げた土岐哀果もツルゲーネフの愛読者でした。
 ツルゲーネフを熱烈に尊敬していたクロポトキンによると、ツルゲーネフの小説には、ロシアの各時代に足跡を残した知識人の主要な典型が現れています。(伊藤整訳、クロポトキン『ロシヤ文学講話 上』、改造社、一九三八、一六六頁)。ツルゲーネフが白い手のイメージをつくり、普及させたという推測は充分成り立つでしょう。そして「白い手」の悲しみはヴ・ナロードを叫んだ一八七○年代ロシアの貴族インテリゲンチア、すなわち「ナロード」(民衆=農民)という抽象的な概念を情熱的に愛し、かつ挫折した知識人達の苦悩に端を発しており、彼らの象徴としての「白い手」のイメージは、少なくとも一九二○年代前半には朝鮮の若い知識人の間にすでに知られていたのです。

<子爵の息子>

 ここで「子爵」ではなく、「子爵の息子」となっている点に注目しなければなりません。柳宗鎬[ユ・ジョンホ](評論家、一九三五~)はこれに関連して当時「韓日合邦」に貢献したという理由で爵位を授かった朝鮮人の存在を指摘しています。(柳宗鎬『詩とは何か』民音社、一九九五、二六頁)。日本の天皇から爵位と恩赦金を受けた人々の子弟のうち、ある者は誇らしげに歩き、ある者は恥じ入って酒びたりの日々を送りました。話者が羨んでいるのは、売国行為によって貴族になった者ではなく、彼らの息子達、つまり直接手を汚さないで貴族になった人々、たとえば廉想渉の「愛と罪」の李海春[イ・ヘチュン]のような貴族なのです。

「それなら、なぜ爵位をお受けになったの?」
「私が受けたわけじゃない。祖先の罪の代価としてもらったんですよ(…)。」
(「愛と罪」、『廉想渉全集 二』、民音社、一九八七)

 ここで私達は、白樺派という「二代目」のお坊っちゃん達の存在を思い起こさずにはいられません。白樺派のメンバー達もパンの会に参加していたし、また有島武郎と柳宗悦は同志社大学英文科に出講した時期があって、中でも柳は芝溶が直接講義を聞いていたらしいということを考えれば、芝溶が白樺派を強く意識していたと考えて不自然ではありません。また、芝溶が翻訳した英米の詩はブレイクとホイットマンでしたが、柳はブレイクの先駆的研究者であり、有島はホイットマンの紹介者として知られています。柳も有島も爵位こそなかったものの名門の出身で、白樺派の代表格であった武者公路実篤は文字通り「子爵の息子」です。白樺派の人々がみな厳密な意味で貴族階級に属していたわけではなく、彼らの家庭がすべて金持ちだったわけではありません。しかし、ともかく彼らは社会的に高い地位にある人物の子弟でしたし、貴族学校である学習院に通った、銀のスプーンをくわえて生まれた人々、つまりは自らの手を汚すことのなかった人々です。
 だが白樺派に反感を覚える人々も少なくありませんでした。上流階級に属さない者の眼から見れば、白樺派の坊っちゃん達の華やかな活動は、まるで金持ちの子弟でなければ芸術をやる資格がないと言っているように見えるのです。

余事だが私は台頭当時の『白樺』に向ってある欝憤を禁じ得ぬ者がある。彼等は口に人道と博愛とを説きながら、人もなげなる態度に十分平民蔑視を示した。
「金のある貴族でなければ、よき芸術は作れない!」――彼等はあの頃の一部の文学青年にこう思いこませて了った。」
(木村毅、 「明治・大正文学と経済意識」、 『文芸東西南北』、平凡社、 一九九七、二○五頁)

 芝溶の随筆「鴨川上流」には、同じく朝鮮人留学生である女友達とともに散策をしていて、比叡山のケーブルカー工事に朝鮮人労働者が働いている現場に遭遇する場面が出てきます。労働者階級の出身ではないものの、芝溶もやはり貧しい青年でした。それなのに彼は「金ボタン五つ」(「船酔い」)付いた学生服を着て、故郷には妻がいるのにガールフレンドとともに散歩をし、日本で英文学を学んでいるのです。伝統的な儒教思想に基づいた家族制度が長男にもたらす重大な責任――芝溶は十一歳にしてすでに妻帯者でした――が彼を待っている故郷に背を向けて「子爵の息子」と同じように文学修業に没頭する自分に対する懐疑が、この後半部の核です。
 要するに、ここで「子爵の息子」とは、具体的な貴族階級の一つを指すというよりは、自らの手で働かなくとも芸術に熱中できる特権階級の象徴であると言えるでしょう。たとえば、徽文高普時代の先輩であった洪思容のように裕福(後に没落しますが)で、買いたい本は何でも買え、『白潮』のような立派な雑誌を発行して華やかに活動できる友人は、校費生としてやっと学校に通う芝溶にとって「子爵の息子」だったのです。

おお異国種の仔犬よ
僕の足をなめてくれ
僕の足をなめてくれ

<異国種の仔犬>

この仔犬は当然、カフェの雰囲気に合う外来種の高級犬でなくてはなりませんが、外来種、西洋種と言わずにわざわざ 「異国種」となっているのはなぜでしょう。単に「外」から来たというだけではなく「異」なる国、本質的にどこか異質な国から来たということを強調するためです。すなわち異国種の仔犬は外国にいる自分自身の孤独な姿が投影されています。言葉の通じない動物ではあるが共に他郷で暮らしているような親近感を持っているので、「僕の足をなめてくれ」と、悲しみと孤独を慰めてくれと仔犬に頼んでいるのです。ブレイクの詩“Spring”の話者が子羊に向かって「私の首をなめておくれ」と語るごとく、「カフェ・フランス」の話者と仔犬も対等な関係にあります。“Little Lamb, /Here I am;/Come and lick/My white neck;/Let me pull/Your soft wool;/Let me kiss/Your soft face:”. “Spring”においても「カフェ・フランス」においても、話者と動物との関係にある種の性的イメージが読み取れます。また柳宗鎬は、ツルゲーネフの散文詩「犬」との関連を指摘しています。 この詩の中で「わたし」と「犬」は、黙って見つめあっており、しかも互いに同じ気持ちを抱いていると感じています。「動物と人間と、それぞれの眼ふたつのなかで、――おなじ生命[いのち]があい求めて、おずおずとすり寄る。」(ツルゲーネフ「犬」末尾部分)