四、 日本語詩の意味するもの

 芝溶の日本語詩は文法や言葉づかいのぎこちなさが妙な魅力になっていたりもして興味深いものですが、ほぼ同じ内容を朝鮮語と日本語で書いた詩が十七ほどあり、日本語の作品だけが残っているのは十篇です(*これはこの本を書いた時点での話で、その後日本語作品がいくつも発見されているようが、それは考察に含まれていません)。ここで、彼が日本語で詩を書いた理由を検討してみましょう。まず第一に、当時彼が口語自由詩のお手本にすることのできたものは日本語か英語、または日本語や英語に翻訳されたフランスなど西洋詩人の作品が大部分だったので、文学修業のプロセスにおいて日本語で詩を書いてみるのは、言わば自然の成り行きなのです。
 芝溶より少し年長の詩人朱耀翰は、東京留学時代に、日本語に翻訳されたフランス詩人の作品をまねて日本語で詩を書いてみたと述懐しています(「『創造』時代の文壇」、『自由文学』創刊号、 一九五六年六月)。耀翰は『創造』、『学友』等に発表した自らの初期詩作品について、「そうした作品の内容はすべてフランスおよび日本の現代作家の影響を受けた外来の句文が多く(したがって朝鮮文学としては独創ではないと言ってよいが、お手本にするものもなかった当時の若い筆者としては、それ以上のことは不可能だった)」 (「歌をつくろうとする人に」、『朝鮮文壇』創刊号、 一九二四。 一○、六三頁)と、外国文学の影響の必然性を強調しています。
 一九二○年代の文学青年の多くは日本留学の経験を持っており、日本語で習作をするケースは少なくありませんでした。黄錫禹[ファン・ソグ](詩人、一八九五~六○)は一九一八年に三木露風の推薦を受けて日本語詩を雑誌に発表していますし、金素月[キム・ソウォル](詩人、一九○二~一九三四)、南宮璧[ナムグン・ビョク](詩人、一八九四~一九二二)の遺稿からも日本語の詩が発見されています。芝溶と同い年の蔡万植の小説「過渡期」(一九二三)には、主人公である早稲田大学文科の朝鮮人学生が日本語で詩や童話を習作するところが出てきますし、廉想渉も少年時代、時調[シジョ](朝鮮の伝統的定型詩)をつくったことはないが、日本の短歌は習作を試みたと回想しています。
 芝溶は朝鮮人学生の同人誌にも加わっていましたが、やはり日本の詩人達の参加する雑誌は読者数が比較にならないほど多い華麗な発表舞台でしたから、そんな雑誌に投稿してみようという気が起っても不思議ではないでしょう。ただし、彼が東京詩壇での活躍を最終的な目標にしていなかったことは、先に述べたとおりです。
 しかしさらに根本的な理由として、一九二○年代の朝鮮語口語体が、今よりもずっと未成熟であったという問題を想起しなければなりません。芝溶とほぼ同時期に創作活動を始めた八峰[パルボン]・金基鎮の回顧によれば

わが国で一九二三年以前の文壇といえば崔南善[チェ・ナムソン]・李光洙[イ・グァンス]・金東仁・廉想渉・田栄沢[チョン・ヨンテク]・朱耀翰・呉相淳[オ・サンスン]・南宮璧・韓龍雲[ハン・ヨンウン]・黄錫禹・卞栄魯[ビョン・ヨンノ]・金岸曙[キム・アンソ]・羅稲香[ナ・ドヒャン]・玄鎮健[ヒョン・ジンゴン]・朴鍾和・洪露雀[ホン・ノジャク]・李相和[イ・サンファ]・朴英煕[パク・ヨンヒ]・金雲汀[キム・ウンジョン]・盧春城[ノ・チュンソン]・金東鳴[キム・ドンミョン]など二十人あまりの詩人・小説家を指すことになる。李殷相[イ・ウンサン]・方定煥[パン・ジョンファン]・金素月[キム・ソウォル]などは私と同様に一九二三年後半から作品活動をしていたと記憶するが、それ以前の、先に挙げた人達の詩と小説といえば、簡単に言うと感傷的人道主義と頽廃的浪漫主義に染まったものであった。
(「二十年代の文人達―側面から見た新文学六十年・2」、洪廷善編、『金八峰文学全集 Ⅱ』、 文学と知性社、 一九八八) 

  芝溶が創作を始める頃、朝鮮語で自由詩を発表した人の数も極めて少数でしたし、その中で鑑賞に堪える詩も、数えるほどしかなかったのです。芝溶以前にも口語体の朝鮮語で自由詩を書いた例はありましたが、たいていの場合、ひどく観念的であったり、センチメンタルであったりしました。それでなければ前近代的な社会で抑圧された女性の悲しみや農耕社会の情緒をうたった作品でした。芝溶は彼等の作品から学ぶこともあったでしょうが、留学して近代的な都会のシステムに遭遇した若い詩人としては、先達の作品とは別の思想や心理状態を表わす文体と語彙が必要でした。
 新しい概念、思想、情緒を表現するにあたって自国の言葉ではそれを充分に表現できないと感じたとき外国語の表現を借りてみるのは、選択の問題ではなく不可避の営為です。明治の小説家二葉亭四迷は、当初日本語で書くのが難しくて、ロシア語で書いた後にそれを和訳しながら日本語口語体を完成しました。またモダニスト詩人西脇順三郎の若かりし頃、日本には既に新体詩や華麗な文語体象徴詩がありましたが、彼はそんな詩にまったく関心が持てず、江戸時代の文人が漢詩をつくったように、英語やフランス語で詩を習作したそうです。西脇が、日本語でも詩が書けるのだ、と初めて思ったのは萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(一九一七)に接した時です。大岡信は次のように説明しています。

西脇氏がここで強調していることは、朔太郎に触れることによってはじめて、「文学語」でない言葉で詩が書けることを知ったということだが、それと同時に、『月に吠える』をロンドンで読むまでは「非常に好きな」詩も、英語やフランス語で書くほか道を知らなかった、という述懐も見のがすことができない。それは、日本の「文学語」では表現できなかった彼の「詩」が、外国語によってなら曲りなりにも表現できた、ということであって、彼における「詩」と、洗練された日本の「文学語」の伝統とは、彼の中ですでにはっきりと対立していたのだ。
(大岡信、『蕩児の家系』、東京:思潮社、 一九六九、四九頁)

 朱耀翰や芝溶、金素月の日本語詩創作もこうした意味で不可避の過程であったと言えるでしょう。新しい語彙や文体をつくるというのは荒野を開拓するに等しい、険しく孤独な作業です。父祖の苦労を知らない後代の人々が「朝鮮語で書けばいいのになぜ外国語で詩を書いたのか」と非難するのは、馬鹿げています。いま、彼等が当然のように自由自在に使っている朝鮮語口語文体は、開拓者達のそうした苦闘の末に出来たものだからです。
 芝溶の日本語詩が最初から日本語で書かれたのか、朝鮮語で書いたものを日本語に直したのかは分かりませんが、「酒場の夕日」(対応する朝鮮語詩のタイトルは「夕陽(チョニョクヘサル)」)のようなものは、日本語が先に書かれただろうと推察される理由があります。

火のような酒を ぐうっと、/飲みほしても  ひもじいぞ。//おとなしいグラスを/めぢやめぢや 食べても  ひもじかろ。//おまへの眼は 高慢な 黒ぼたん。/おまへの唇は 寒しい 秋西瓜の一切れ。//なめてなめて ひもじかろ。//酒場[バー]の窓が、/あかあかと燃えて ひもじいぞ。
(「酒場の夕日」、『近代風景』一九二七年十月。原文日本語)

これで連想されるのが白秋の「空に真赤な」です。

空に真赤な雲のいろ/玻璃に真赤な酒の色。/なんでこの身が悲しかろ。/空に真っ赤な雲のいろ。

これは白秋が流行歌のメロディーに合わせて作詞したもので、パンの会の青年達が酔っぱらうたびに合唱した歌です。取り立てて言うほどの内容はありませんが、各連の最後が「いろ」、「…かろ」で終わる音韻的なおもしろさで愛されたのでしょう。ところで、「…かろ」は普通なら「…かろう」と書くところを「いろ」に合わせて一字減らしたものでしょうが、「…かろ」は俗謠に使われる語尾でもあります。芝溶の「酒場の夕陽」もそうした俗っぽい表現がおもしろくて借用したもののようですが、朝鮮語詩「夕陽」では「ひもじかろ」に該当する部分が 「ペコプリ」で、この言葉に「ひもじかろ」ほどの俗っぽいおもしろさは感じられません。
 別の例を挙げてみましょう。朝鮮語詩「柘榴」(一九二四)に対応する日本語詩「新羅の柘榴」(一九二五)です。

薔薇のやう咲きゆく火爐[ばち]の炭火/立春節の夜は藻汐草焼く香りする
(「新羅の柘榴」一部)

朝鮮語詩「柘榴」で藻汐草焼く香りするに該当する部分は「薔薇のように咲く火鉢の炭火、/立春の夜は枯れ草を焼く匂い」となっています。この対照において問題になるのは「藻汐草[もしおぐさ]」と「枯れ草(マルンプル。直訳すると〈乾いた草〉)」です。「藻汐草」は「藻塩草」とも書きますが、「藻塩」は海水からつくる塩のことです。昔は海草を海水に浸して塩分を含ませた後にそれを焼いて水に溶かし、その上澄みを沸かして塩をつくったのですが、「藻塩草」は「藻塩」をつくるときに使う海草です。ところで和歌において「藻塩草」は「焼く」の縁語で、藤原定家の「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」は百人一首でおなじみでしょう。「藻汐草」という単語を使用するには、最低限この程度の文学的教養がなくてはなりません。芝溶も当然この言葉の象徴性を知った上で使っていると思われますが、朝鮮語の「柘榴」においてこの部分は「枯れ草」という、ごく単純な表現です。つまりこの場合、「マルンプル」の訳語として「藻汐草」を連想することはほとんど不可能なので、朝鮮語詩が先に書かれたとは考えにくいのです。芝溶は日本語詩を先に書き、それを朝鮮語に移す時、「藻汐草」に対応する単語が見つからなくて、「マルンプル」にしてしまったと考えるのが自然でしょう。
 もっとも芝溶の日本語詩のほとんどは、最初から日本語で書かれたかどうか見分けがつかないし、そのこと自体はたいして重要な問題ではないでしょう。ダイレクトに日本語で書かれたとしても、彼は日本語のネイティブスピーカーではないのですから、日本語で考えたり朝鮮語で考えたりしながら創作したと思われます。


五、みなし子の夢

次に掲げるのは日本語作品のひとつである散文詩「みなし子の夢」です。分析の便宜上、各文に番号をふり、芝溶の日本語が舌足らずで分かりにくくなっている部分には、<>で注釈をつけてあります。

 (1)橋の下をくぐると、乞食でもありさうなみじめさになるものを<乞食にでもなったようなみじめな気持がするはずなのに>――何んで私は橋の下がすきなんだらう。
 (2)蜘蛛たちがアンテナをはつてすましこんでゐる下で私ばかりが好きなことばかりを考へこんでゐるのが楽しい。
 (3)五拾銭銀貨を、ひとつひろつた。嬉しいこと! ここはまつたく好きになつた。 神さまは今でも有りがたいな。
 (4)蜜柑の皮をむいて食べたり夢にもならないことばかり考へたり 綺れいな流れに足を ざんぶりこ と入れる。ちろろちろろ 木琴[ザイロフオーレン]<ザイロフオーン(xylophone)の誤記>を鳴らすばかりにこころもちが涼しい< 木琴でも鳴らしたかのように気持が爽やかだ>。
 (5)夜はこういふ所に いつそう こんもりと より蒲[た]まつてゐる。<溜まつてゐる。>私のこころは蝙蝠でもつかまふとするのか。
 (6)がつたん・がつたん・がつたん・・・ ほー 誰れだ? 私がここに ゐるよ。
 (7)のそり のそり と橋の影<陰>をぬけでる。
 (8) 大きい空よ。星よ。むらがつてゐる夜の群れよ。魔の円舞[ロンド]を踊るビロードの夜よ。
 (9)こんな大きい夜とともに遊ばう。私が躍ねる。蛙が いつぴき 躍ねる。私が躍ねる。蛭<蛙>が いつぴき 躍ねる。
 (10) 流れる水をさかのぼつてゆくのは びつこを引く野鶴ばかりでもない。砂に埋められる私の足ゆびが白い魚達のやうにかしこくなる。
 (11)このままでだんだんさかのぼつてゆく。どこまでもいかう。
 (12)山の奥、岩のかげま<岩の陰>、しづくのしたたる辺り。蟹たちが逢ひびきしてゐた。そこに古し<懐かし>のお母さんが蝋を明かしてゐりやつさる< 蝋燭を灯していらっしゃる>。
 (13)このままでだんだん下つてゆく。どこまでもいかう。椰子の葉がひとつ漂流[なが]れてきた。
 (14)溺れじにした悪い人がひとり漂流れてきた。 眼が生きてゐた。
 (15)小婦[エミナイ]達は みいんな 子指さきを鳳仙花で紅く染めてゐた。水かめを頂いた<戴いた>列が黄い<黄色い>夕暮れの中を帰つてゆく。
 (16)小供[オリナイ]達は みいんな 人さしゆびを口にくはへてゐた。遠く霞んだ島島をほれぼれと見とれてゐる。ふくよかにふくらんでゐる帆かけ船が独楽のやうにすべつてゆく。
 (17)生れ故郷の海辺は秋西瓜のやうに淋しい。
 (18)風が少し吹いてきた。しめつたるい風だ。
 (19)蛍が草むらに逃げまどってゐる。
 (20)星が菖蒲のお湯から出たばかりに<出たばかりのように> びつしより濡れてふるへてゐる。雨模様だ。
 (21)私は又橋の下にひき蛙のやうにひきこまねばならない。濡れやすい心はブランケツトを欲しがる。あそこに暖かい火が咲いてゐる――

 (22)――十年立つても<経つても>恋でもない みなし子の夢がつづく。

 (23)窓がらすがあわただしう< あわただしく>わななく。風。どこかで水鶏が ぷん!  ぷん!
(「みなし子の夢」、『近代風景』 二巻 二号、一九二七。二、原文日本語)

 まずこの詩を四つの部分に分けて考えてみましょう。

(1)-(9) 話者の住む現実世界(川辺、橋の下)
(10)、 (11) 夢の世界への移動過程
(12)-(17) 夢の世界
(18)-(23) 現実世界への帰還

以上のごとく、この詩は話者が異界に一時的に入ってまた戻ってくるという、いわば神話や民話のような構造になっています。
 時間的には夜であり、話者が川の水の冷たさを楽しんでいること、蛍が出てくること、火や毛布を恋しがっていること、秋の西瓜という言葉があることなどから考えれば、季節は朝夕にちょっと肌寒くなった晩夏か初秋でしょう。故郷の風景を描写する部分では「エミナイ」(方言で、女の子という意味)、「オリナイ」(幼い子供)という朝鮮語の単語がそのまま日本語の中に混在しており、この詩の話者が朝鮮半島から来たのだということを示しています。
 タイトルは「みなし子の夢」ですが、話者は孤児ではないのに孤児の孤独を楽しんでいるように見えます。河原という場所は古くから社会秩序から疎外された人々の集まる場所でした。橋の下については、お前は橋の下で拾ってきた赤ん坊だなどと子供をからかう習慣は、朝鮮にもあります。そこは橋の上を通りすぎる人達には見えにくい閉鎖的な空間であり、話者がわざわざそこに入りたがっているところを見ると、彼には母胎回帰の欲求があるのではないかと思われるのですが、橋の下にかけられた蜘蛛の巣は、閉鎖的な空間をより閉鎖的なものにしています。「夜はこういふ所に いつそう こんもりと より蒲まつてゐる。」と言っているように、暗い夜にも橋の下は、よりいっそう濃密な闇のたちこめる空間であり、異界に通じる神秘的な場所です。獣と鳥の二面性を持つ蝙蝠は、その場所が二つの世界の中間に位置していることを暗示しているようですし、川そのものも、この世とあの世との境界にある三途の川を連想させます。続いて話者はがったんという音を聞きますが、これは異界から使者がやって来た時に立てる音で、話者はまるでそれを待っていたかのように橋の下を抜け出します。外で待ち受けていたのは魔のロンドを踊る夜の群です。それは神秘的でビロードのように柔らかく温かい感触を持っていて、話者と一緒に遊んでくれる妖精のごとく人格化されています。
 話者は流れる川の水の中に裸足で入ってゆき、水の源に向かって遡り始めます。足の指が魚になったように感じるのは、話者が、自分の行き先を本能的に悟っているからです。
 (12)で話者は異界に完全に入り込んでしまいます。懐かしいお母さんがろうそくを灯している山奥、岩の陰、水が滴り落ちている所は母の子宮を連想させ、蟹達の逢いびきも性的イメージを強めています。つまり話者は現実の世界を抜けて赤ん坊に退行し、母胎に回帰したのです。したがってそれまで遡っていたのが、突然下り坂に変わっていたとしても、話者の心理の中では矛盾しません。話者は方向を変えたのではなく、過去の記憶に向かって下りているのですから。椰子の葉は、遠くの暖かい国、すなわち過去の幸福な記憶の世界からもたらされた便りであり、その暖かさは橋の下の肌寒さと対照をなしています。
 この部分から連想されるのは、島崎藤村の新体詩「椰子の実」(一九○○)「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実ひとつ/ふるさとの岸を離れて/汝[なれ]はそも波に幾月(…)」」でしょう。 椰子の葉が流れ着くのが川ではなく太平洋側の海岸だということを考えれば、この場所が先ほどの川岸とはまったく違う世界であることが分かります。川を遡って山に入った話者はいつのまにか海岸に来ているのです。話者の故郷は朝鮮半島ですから椰子の葉は流れてこないでしょうが、そもそもこれは夢ですから、こんな非論理的な空間移動も可能なのです。
 悪い人の死体が何を意味するのかは定かでありませんが、幼な心にさまざまな場面で遭遇する恐怖、特におぼろげながら理解しはじめた死に対する恐怖のようなものの象徴ではないかと思われます。芝溶が愛読したであろう白秋の『思ひ出』は、小さな子供の繊細な感情のゆらぎを描写する感覚的な言葉に溢れた詩集ですが、その中の「敵」という題の詩は、子供が故なく覚える恐怖をよく表わしています。この詩では話者である子供が、道を通るときになぜか、「いづこにか敵のゐて、/敵のゐてかくるるごとし、」とおののきます。また同じ詩集にある「青き甕」という詩は、白秋が七歳の夏、コレラが流行したときの追憶を書いた作品です。この詩では死んだ患者の死体を入れた青いかめ(座棺)を運ぶみすぼらしい葬列が幾度も家の前を通りすぎるのを、話者(子供)が家族と共に家の中で息をひそめて見ています。青いかめは突然話者の父親の顔に変わって話者をにらみつけ、次の葬列の青いかめは母親に変わって話者をあざ笑い、その次のかめは話者自身でした。「刹那見ぬ、地獄の恐怖[おそれ]。」「みなし子の夢」の「眼が生きてゐた。」という言葉も、にらみつけるかめのように、幼い子供が生と死を間近に感じ始めるときの、言いようもない恐れの象徴です。
 エミナイ達は話者の幼なじみであり、オリナイの中には話者自身もいるのでしょう。遠い島をながめる子供は広い世界を夢見ていた、少年時代の話者の姿です。
 首にからみつくような風は現実世界から吹いてきます。湿った風が話者を目覚めさせ、現実に戻らせるのです。逃げ道を失ってもがく蛍は迷っている話者自身であるし、菖蒲湯から出てきたように濡れてふるえている星も、幼い時の記憶の温かさから出て現実世界の寒さにふるえる話者自身です。朝鮮では五月五日の端午の節句に菖蒲湯で髪や体を洗う習わしがあるので、温かい菖蒲湯は、祝日のごちそうや伝統的な遊戯、そして菖蒲湯で髪を洗う女達のちょっと華やいだ様子など、楽しい記憶と結びつくものです。その追憶から急に現実に戻れば、寒さにふるえざるを得ません。現実に戻りはしたものの、話者は人々の住む所に行くよりはひとりで橋の下に入ることを望んでいます。話者はやはり現実の世界になじめないのです。醜いヒキガエルの姿は、自分は他人から愛されないでいると信じ込んでしまった話者の孤独を表わしており、またヒキガエルのうずくまった姿勢は胎児のそれと似ていて、厳しい世間に出てくる前の胎児の状態に帰りたいという話者の渇望を示しています。
 しかし独立した行(22)において話者は、子供時代からは長い歳月が過ぎたということ、自分が夢を見ているのだということを、自ら冷静に認めています。最後に風に吹かれて音を立ててふるえる窓ガラスは、話者が完全に夢から覚めて過酷な現実に直面しているということを表わしており、遠くに聞こえる水鶏の鳴き声だけが夢の余韻を漂わせます。

 「みなし子の夢」は一九二七年二月(『近代風景』第二巻第二号)に発表されたので、留学時代の作品ですが、実際の芝溶は孤児ではありません。「十四歳のときから家を出てつらかった。」(「昔ばなしのひとくさり」、拙訳)という詩句にあるように、芝溶は徽文高普入学(一九一八、十七歳)以前から故郷を離れ、京城にある妻の親戚の家で漢学を習っていましたが、それは孤児になることとはまったく違います。孤児どころか、早婚の彼は留学当時、すでに妻帯者でした。
 それでは、なぜ詩人はみなし子の夢を見るのでしょう。まず考えるべきは、詩人がこの詩を京都で書いたという点です。言葉はできたとしても、気候も食べ物も生活習慣も違う他郷で暮らすことだけでも初めは苦労したでしょうし、植民地青年としての疎外感や、カルチャーショックも少なくはなかったでしょう。日本語作品の中に「小婦[エミナイ]」、「小供[オリナイ]」と朝鮮語の単語を露出させていることからも、この詩のみなし子は、植民地の現実を象徴的に表わしたものではないかということが、まず考えられます。
 しかしよく読んでみれば、話者が懐かしがり、帰りたがるふるさとは詩的現在の実際の故郷ではなく、話者の記憶の中で美しく純化された幼いころの追憶であるということに気づくでしょう。話者にとって懐かしいのは 「老いた父」も「一年中素足の妻」(「郷愁」)も存在しない、つまり彼が家長としての重い責任を感じる必要のない、いつもただうれしいばかりの、それこそ夢の世界なのです。だから話者は乞食ではないのに夢の世界への通り道である橋の下に喜んで入り、みなし子の孤独を楽しむのです。
 実際には芝溶の場合、それほど孤独ではありませんでした。彼は大学で予科・本科過程を正式に踏む学生でしたし、寮に住み、留学生の同人誌はもちろん、日本人学生達の同人誌にも名を連ねて作品を発表し、ある時期からは教会の活動などもしていたから、知己や友人はかなり多かったものと思われます。
 同志社大学時代、鴨川のほとりは芝溶の散歩コースでした。繁華街の近くにありながら、鴨川は昔も今も水鳥がのんびりと遊ぶ、都会のオアシスです。芝溶は川岸に横たわって試験勉強をしたり、疲れた頭を休めたり、友達と話をし、ときにはガールフレンドと散歩をしたりしました。そんな時、若い詩人の脳裏には故郷・沃川の小川が思い浮かんだかもしれません。鴨川の岸辺を散策しながら、幼い日の追憶に入り込んでしまうというのも、夢見がちな青年にはよくあることでしょう。
 現実世界が暗く寒いのに比して夢の中のふるさとは暖かく(話者は現実に戻った途端、寒さを感じます)薄暗い(岩の間に母が灯したろうそく、黄色い夕暮れ)という対照をなしています。夢の中の故郷は優しく、甘く、そこでは母の胎内にいる胎児のように何の心配もなく暮らすことができます。その甘美な世界に入ることができるからこそ、話者はみなし子になりたがるのです。
一九二○年代に書かれた芝溶の初期詩の中でも「みなし子の夢」は」幌馬車」(制作:一九二五)とともに最も散文に近い散文詩であり、比較的長い作品です。一九二三年に書かれた「郷愁」が、同じく故郷への郷愁を主題にしていながら整然とした形式美を備えているのに対し、「みなし子の夢」は形式にこだわらずのびのびと書かれています。
 ふりかえれば朱耀翰の「火遊び」以後、一九二○年代の朝鮮で口語自由詩として成功した作品はそう多くありません。二○年代には外国の詩を表面的に模倣した、浅薄かつ頽廃的な作品が多く、現在でも比較的鑑賞に堪える韓龍雲[ハン・ヨンウン](僧侶・詩人・独立運動家、一八七九~一九四四)の一連の作品や、李相和[イ・サンファ](詩人、一九○一~一九四三)の「僕の寝室に」等の作品も、ひどく観念的であるという印象は免れません。また散文詩という形式で書かれた作品自体が、この時期には少ないのです。
 そう考えてみれば、「みなし子の夢」は散文詩形式において、誰のまねでもない芝溶の個性がはっきり出ているという点で特異な作品です。「みなし子の夢」はのびやかで敍情的であり、明るく健康で、世紀末的退廃とは無縁です。観念的な言葉を使わず、具体的なイメージを駆使することで読む者の共感を誘っています。この詩は何よりも話者の内面心理の描写が絶妙で、幼いころの思い出に対する郷愁、少年のころに感じる、新しい世界への憧れや生と死に対する得体の知れない恐れなど、さざ波のように微細な感情の揺らぎを余すところなく表現するのに、散文詩という形式はよく合っているように思えるのです。芝溶の初期詩を論じる時、視覚的イメージの多用ということがよく挙げられるのですが、この作品から分かるように彼は聴覚イメージ(「ちろろちろろ 木琴を鳴らすばかりに」、 「がつたん・がつたん・がつたん」、「窓がらすがあわただしうわななく」、 「水鶏が ぷん!  ぷん!」)、 味覚・嗅覚イメージ(みかんや西瓜の味と匂いで季節を表わす)、触覚イメージ(暖かさと冷たさ、風、湿気や水の濡れた感触)など人間の五官をフルに活用した感覚的イメージを用いています。言葉に表現しづらい微妙な感情を描写するために詩人は全身の感覚を総動員して比喩をつくっているのです。
 もう一つ注目すべき点は、この作品が都会の中の孤独を描いているという点です。話者がどういう所に住んでいるのかは分かりませんが、川辺に窓ガラスのふるえる音が聞こえるなら、少なくとも民家の密集する町だということが分かります(当時、朝鮮の片田舎ではガラス窓など、あまり使われていません)。また、故郷を懐かしむというのは、故郷から遠く離れているからこそ可能になるものです。今見れば何でもないようですが、都会に滞在しつつ、変貌していく故郷を懐かしむというのは近代化以前にはありえなかったテーマで、朝鮮近代詩では一九二○年代以後、特に京城が近代的な都市に変貌した一九三○年代に頻繁に現れ始めた情緒です。おそらくはボードレールの『パリの憂欝』に端を発しているこの近代的な情緒を感じること自体が、若き日の詩人には新鮮であり、甘美な経験ではなかったでしょうか。美しい赤レンガの建物が並ぶ大学で勉強すること、新しい形式の詩をつくり、それが活字になること、喫茶店に入ってコーヒーを飲むこと、洋装の女学生やカフェの女給と言葉をかわすこと、そして時折、郷愁にひたることは、それ以前の人々は味わうことの出来なかった近代生活の一環でした。都会の中の孤独という新しい情緒を詩に表現したという点で「カフェ・フランス」、「幌馬車」、「郷愁の青馬車」と同じく、この「みなし子の夢」は先駆的な意義を持っています。