規範と言語と『森のムラブリ』: 前編

YouTube を開いたら,こんな動画が目に留まりました:

初めて見るチャンネルでしたが,あの宮台さんのお名前とお顔があり,そして何よりサムネイルに大きく映っている伊藤雄馬さんのご尊顔が目につきました.

私も伊藤さんと同じ言語学者ですが,実は某学会の懇親会で一度伊藤さんとお会いしたことがあって,お顔とお名前を存じ上げていたものの,交流はその一回きりで,対面でもオンラインでもテキストでも全く関わりがなかったところ,共通の知人から「大学を辞めて独立研究者になった」という衝撃の事実を聞き,それ以来どう活動されているのか気になっていました.

この動画,1時間以上もあるなかなか長いコンテンツですが,宮台さんとの化学反応もあって極めて濃密で知的好奇心を刺激する内容で,あっという間に最後まで見てしまいました.もちろんこれは私が言語学者だからということもありますが,少しでも多くの皆さんにこの「面白さ」を共有したいという思いから今この記事を書いています.

ということで,以下ではこの動画内で取り上げられているいくつかの話題や事象・問題を紹介しながら,その解説や補足,そして僭越ながらも私の見解などを述べていきたいと思います.ただ書いてみたらとてつもなく長くなりそうだったので,前編・後編に分けました.この記事はその前編です.

規範と言語

この動画は全編通して,伊藤さんがある意味で「主演」されている森のムラブリ』というドキュメンタリー映画の紹介と,その映画内で起こる出来事に関する説明や解釈について,主として司会である神保さんが質問し,伊藤さんがお答えし,関連する話題や補足を宮台さんが提供する,という流れで進んでいきます.

その映画が映像に収めているのがタイとラオスの国境付近で生活するムラブリという民族の様子なのですが,動画の割と序盤で,現在ムラブリには3つのグループが存在し,互いに互いを「人喰い」の恐ろしい集団だと喧伝し近づかずにいるという状況が紹介されます.伊藤さんは映画の中で彼らを引き合わせるような一大イベントを発生させるわけですが,それに関連して,23分半辺りから興味深い話題が語られます:

実際に人喰いの恐ろしい集団だというわけではないにも関わらず,なぜそこまでまことしやかにそのような「ストーリー」(ナラティブ) が語り継がれ続けているのか.伊藤さんは,そのような「ソト」の「悪者」を作り出すことで,逆に「そうではない我々」の規範を作り出し,そして維持している,ということではないかというお話をされています.

「人を殺してはならない」といった「規範」を仲間内で維持するために,「ソトには人を取って喰らうひどい集団がいるが,我々はそうではない.ヒトを殺したらあいつらみたいになるぞ」というナラティブを作り出し共有することで,それが非常に明確な「教訓」として機能するわけです.

実はこの「規範」という概念は,言語というものを考える上でも非常に重要なものだと,少なくとも私は考えています.関連して,動画の中でも,ムラブリの 3 つのグループで使っている単語が一部異なっていて,通訳なしにはコミュニケーションが成立しない部分があるということが語られていましたが,そのような「使用している言語が異なる」という意識・認識が,「彼らと自分たちは違うんだ」というアイデンティティの感覚にもつながっているという部分があるようです.この点は後編でまた触れたいと思います.

ここでお話ししたいのは,例えば「日本語」や「英語」のような一つの言語を言語たらしめているのは,使っている言葉が「同じである」という感覚であり,そしてその感覚を与えているのは,結局は「規範」であるということです.客観的に見て言語が「同じ」であるかどうかというのは実は非常に判断が難しいところで,究極的には個人個人が一人一人使っている言葉,知っている言葉は異なっている.にもかかわらず,我々は無数の「他人」に対して「同じ言語」を使っているという「錯覚」をしていて,誰にも教えられていないにもかかわらず「食べる」の可能形は「食べられる」であって「食べれる」ではない,と言い張ったりする (いわゆる「ら抜き言葉」) わけです.

これが意味するのは,「みんなが同じルールに則って言葉を使っているはずだ」という「規範意識」こそが言語の正体であるということだと,私には思えます.そんなような話題を以前某学会で発表したことがあるのですが,伊藤さんとお会いしたのがちょうどその時で,本記事冒頭で述べた懇親会の際に,伊藤さんがフィールドワークに行かれた先 (= ムラブリ) でも,形は違えど同じような「規範」と言語の関係を見て取れるというお話をされていたように朧気ながら記憶しています (記憶違いでしたら申し訳ないです).

サピア-ウォーフの仮説: 言語と思考の関係性

暫く後,47分過ぎくらいから,以前当該チャンネルでゲストとしていらしていた京都大学霊長類研究所 (解体されてしまいましたが) の松沢さんという方のお話に言及があり (後編で触れます),そこから「言語の使い方と思考や脳の関係」という話題にうつります:

タイ側にいるムラブリのグループは既に定住生活を始めていて,かなり「我々」に近い生活になりつつあるようですが,ラオス側のムラブリは今も狩猟・採集生活をしている「遊動」民であり,生活域も山の中であって,そういう中で生活していると思考や脳の使い方にも特有の性質が見られるのではないか,という趣旨の質問が神保さんから発せられます.

質問の中に「言語」というワードはなく,どちらかというと生活様式や生活環境と思考・脳の関係,という話題ではないかと思いますが,伊藤さんはそれを「言語と思考の関係」に置き換えて回答しています.曰く,「言語を研究し始めたのは,言語を通して人間を知りたかったから」で,ムラブリ語を学ぶことで彼らの「モノの見方」を知り,伊藤さん自身の世界の見え方がどう変わるか試している,ということでした.

実はこれは長い歴史のある言語学の一大研究テーマで,「言語は思考を決定づける」「言語は思考に影響を与える」という仮説のもと様々な形で検証が行われてきました.その「創始者」的な位置付けにあるのが言語学者のエドワード・サピアとその弟子にあたるベンジャミン・ウォーフという人物で,二人の名をとって「サピア-ウォーフの仮説」などと呼ばれています.

有名なのは「赤」や「青」のような色を表す「色彩語彙 (color terms)」を扱った研究で,特に話題に出やすいのがロシア語に存在する「2つの青」の区別にまつわる話ではないかなと思います.他にも,世界には日本語のように「右」や「左」を使って方向を表すのではなく,「山側」「平地側」や「西側」「東側」という絶対的な方角で方向を表す言語が存在していて (日本 [語] でも一部地域ではそういう表現をするようです),そのような言語の話者は方向の認識が我々とは異なる,ということを示す研究も存在します.具体的な話を書くと長くなりそうなので割愛しますが,以下の Lera Boroditsky の動画を観てもらえると分かりやすかと思います:

ちなみのこのテーマを,地球外生命体との遭遇というトラディショナルな SF の題材と絡めて描いた『メッセージ』 (原題: Arrival) という映画があります.もともとはテッド・チャンという小説家による『あなたの人生の物語』という小説 (原題: Story of Your Life) です.主人公の言語学者が我々人類とは全く異なる書記体系を持つ地球外生命体の「言語」を読み解くことで,時間の認識・感覚という極めて根本的な思考の部分に大きな変革が訪れるというシナリオになっています.

ムラブリとピダハンとイマ・ココ: 言語の超越性

直後,52分ごろからムラブリ語の「時間」表現についてのお話が始まります:

ムラブリ語は,ある出来事や行為が「終わっている」ことを表すいわゆる「完了形」の形と,「これから始まる」ことを表す,英語で言えば be going to のような形が,全く同じ形式で現れるそうで,我々からすると例えば「もう行ってしまった」という状況と「これから行くところだ」という状況を同じ表現で表すという点で極めて奇妙に感じられるわけですが,実際は「今目の前で起きているかそうでないか」を区別している,という原理なのだろうと考えられるのです.

ちなみに,このような,出来事が「終わっている」「進行中である」「これから始まる」といった情報を表す文法上の区別を言語学では「相 (アスペクト)」と呼びます.「現在」から見た相対的な時間である「過去」「現在」「未来」等を表す「時制」とは異なる概念で,過去であれ現在であれ未来であれ,何らかの出来事や行為が行われる時間に対してどのような時点のことか,という区別です.例えば日本語の「た」はよく「過去形」だと言われますが,実際は「完了相」を表しているのではないかということもよく指摘されます (例えば「それが終わっら教えて」のような文を考えてみるといいと思います).

さらにそこから,話題は Daniel Everett という言語学者が調査した,アマゾンに住む「ピダハン」という民族の用いる言語に話が展開します.ピダハンについては書籍が出版され,日本語にも翻訳されていますので,ご存知の方も多いかもしれません:

例えば「彼は私が学校に行ったと思っている」というような,「私が学校に行った」という「文」が「彼は-と思っている」という別の文の中に「埋め込まれ」た構造というのは世界中の言語に存在することが知られていますが,Everett の報告によれば,ピダハンの言語にはそのような埋め込み構造が存在せず,それどころか,上で言及した「赤」「青」のような色彩語彙や,「一つ」「二つ」といった数の概念とそれを表す語彙が無いということまで示されています.その報告は 2005年に Current Anthropology という論文誌で発表され,言語学内に一大論争を巻き起こしました.

Everett の解釈では,それらの「不在」は,彼らが「今目の前に起こっていること」「今目の前にあるもの」のみに着目し,それ以外のことに興味を示さない生活・文化に由来するのだとされていて,動画の中でも言及されている「直接経験」という概念がピダハンの行動原理であり,文化の根幹であり,言語を形作っているものだと結論づけられています.

実は言語には,「今目の前にある」ものごと,すなわち「イマ・ココ」を離れた事物についても指し示したり語ったりすることができるという性質があり,それこそがヒトの言語にとって極めて重要な性質であると考えられています.この性質は,「超越性 (displacement)」と呼ばれています.しかしながら Everett の報告が正しければ,ピダハンの言語には超越性が無いか,あったとしてもさして重要性は持たないということが帰結されます.この辺りは後編の話に続きます.

ムラブリ語もそれに近いものがあって,動画の中で伊藤さんがムラブリは「嘘をつかない」ということをおっしゃっていますが,言語が超越性を持つことによって可能になったことの一つに,まさにその「嘘をつく」という行為が挙げられます.「イマ・ココ」にないものごとについても語ることができるというのは,時間と空間を超越できる (目に見えない事物について「10km 先に美味しいお店がある」と言えたり,過去の出来事について「昨日は公園に行った」と言えたりする) というだけではなく,「現実ではないこと」,つまり嘘やフィクションが語れる,ということを意味します.

ピダハンほど極端ではないものの,ムラブリにとっては「今目の前で起きていること」が主たる関心事であり,そうでない出来事については専用の形式を (わざわざ) 用いて区別し,嘘もつかず「目の前の現実」を生きている,ということなのでしょうか.

以降,後編に続きます ↓

後編の目次:

言語が言語であるために: 動物のコミュニケーションとヒトの言語

パプアニューギニアと言語多様性

文明と感染症

言語と身体

手話は言語である


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