規範と言語と『森のムラブリ』: 後編

(本記事は,以下の記事の続編です.まずは前編をご覧ください)

前編に引き続き,下記の YouTube 動画「伊藤雄馬×宮台真司×神保哲生【5金スペシャル映画特集Part1】「森のムラブリ」に見る人間のモラルの根源と他者を恐れる習性」の「面白さ」を少しでも広めるため,動画の解説・補足と私の見解を提示していきたいと思います.

後編プロローグ

早く後編を書かなければと思っているうちに前編を投稿してから1週間以上経過してしまいました.そうこうしていると,まさかの伊藤雄馬さんご本人が前編の投稿をご覧になったらしく,Twitter でご紹介いただき (下記参照),さらにわざわざ個人的にご連絡をいただいてしまいました.ありがたいことです….

言語が言語であるために: 動物のコミュニケーションとヒトの言語

前編の最後から少し遡ります.前編でも言及しましたが,47分過ぎ辺りから,京都大学 (旧) 霊長類研究所 (余談ですが,解体されてしまったのは本当に残念です) の松沢哲郎さんという方によるチンパンジーの知能に関するお話が紹介されます:

松沢さんはこの YouTube チャンネル (正確には YouTube チャンネルではなく本体 [?] の「マル激トーク・オン・ディマンド」のようですが) に以前ゲストで来られていて (ダイジェスト版は無料で視聴できるようです),その際にお話になった内容を神保さんが紹介されています.神保さんの説明によると,松沢さんはこのようなお話をされたようです: チンパンジーはヒトよりも脳のサイズ・容量は圧倒的に劣るにも関わらず,ヒトを凌駕する記憶能力を見せるが,それは「目の前にあるもの」のみに集中し,過去や未来のことを考えないからで,逆にヒトはチンパンジーよりもはるかに大きくなった脳で「目の前にないもの」ばかりを考えている.

これは前編でもお話した「イマ・ココ」と「超越性 (displacement)」の話と完全に重なる内容です.後編では,この点を,「ヒトの言語の特異性」という話題に結び付けて掘り下げてみたいと思います.ヒトの言語の特異性というのは要するに,ヒトの使っている「言語」とそれに似た他のコミュニケーション様式を比較した時に,ヒトの言語にあって他にはない特別な性質のことを指します.

動物の中には,迫りくる捕食者の危険を知らせるための専用の鳴き声を持つものが少なくなく,そのような鳴き声は「警戒コール (alarm calls)」と呼ばれています.代表的なのはオナガザルの一種であるベルベットモンキーというサルの用いる警戒コールで,空からやってくるタカなどの猛禽類,地上を走って襲ってくる豹などの肉食獣,そして地を這う脅威であるヘビをそれぞれ別の鳴き声で知らせることができます.言語学の教科書では必ず出てくる,お馴染みのサルです.

一見するとヒトの言語で言う「単語」のような性質を持つように見るため,サルにも言語のようなものがあって,コミュニケーションに有効活用しているのだ,と思ってしまいがちですが,実際は警戒コールとヒトの言語との間にはかなり大きな差異が認められます.その一つが,「イマ・ココ」にないものごとを指し示すことができるという性質,つまり「超越性 (displacement)」の有無です.

ベルベットモンキーの警戒コールは,あくまでも今目に見える範囲に存在する捕食者の姿を視覚的に認識し,その視覚刺激に誘発されて (半ば) 反応として出てくる信号です (この辺りの詳しい話については,専門的なものですが,例えばこんな論文 [Price et al. (2015)] があります).「昨日草原で寝てたらヒョウがいてさぁ,慌てて逃げたよ」というエピソードトークをすることはないし,「そっちに行ったらたぶんヘビがいるから,行かない方がいいよ」というアドバイスをすることもありません.視覚的に確認できる範囲内に存在するヒョウや蛇を見て,「ヒョウだ!」「ヘビだ!」と言うことしかできません.

これはつまり,警戒コールには超越性が無い,ということを意味しています.このような性質は,実に多くの動物の用いるコミュニケーションシグナルに共通するものと言えます.ただし例外もあって,その例外としてよく挙げられるのが,ミツバチが蜜の在りかを仲間に知らせる際に用いる通称「八の字ダンス」です.ミツバチは巣から遠く離れた蜜を蓄えた花の在りかを正確に知らせるため,巣を八の字型に移動しながら,尾を巣の「床」に叩きつけることで一定のビートを作り出します.この時の移動の方向が花のある方向に,ビートの間隔 (= 速さ) が距離に対応していて (正確にはもう少し複雑な対応関係です),両者を合わせることで,どの方向にどれくらい飛んでいけば蜜にありつけるのかがわかるようになっています.

しかしこの八の字ダンスもやはりヒトの言語とはかなり異なった性質を持っています.そのうち恐らく最も顕著なものが,恣意性 (arbitrariness) と呼ばれる性質です.恣意性とは要するに,「無関係の形と意味を無理やりくっつけていること」を指します.例えば我々は四つ足歩行をする毛むくじゃらの愛くるしいあの動物のことを「ネコ」と呼びますが,英語では同じ動物を cat と呼ぶことからわかるように,あの動物と「ネコ」 (あるいは cat) という「形式」 の間にはなんら必然的な対応関係はなく,我々が勝手に「ネコと呼ぼう」と決めているだけ,もう少し正確に言えば,日本語の歴史のどこかで,あの動物を「ネコ」と呼ぶことになったからそう呼んでいるだけ,というのが実際のところでしょう.ヒトの言語には (程度の差こそあれ) この「恣意性」という性質が備わっています.

ミツバチの八の字ダンスには,この性質が見られません.ダンスの移動方向は「方向」という点で花の蜜のありかという物理空間と対応していますし,ビートの間隔も「飛んでいくのにかかる時間」と対応しています.言い方を変えれば,ミツバチのコミュニケーションは,物理的な時空間から自由になれておらず,単に時空間的な情報を「圧縮・変換」しているだけだ,ということかもしれません.逆に言えばヒトの言語はかなりの程度時空間から自由であり,どんなものをなんと呼んでもいい柔軟性があり,さらには現実世界に存在しないもの (例えば「ユニコーン」) を「言語の世界」だけで作り出すことすらできてしまうのです.

これに関連して,動画の56分半過ぎあたりから,宮台さんが吉本隆明の「心的現象論」を紹介し,言語の「根源的な姿」に関するお話をされています:

宮台さん曰く,言語はもともとは「目の前にある物事」に誘発されて生じる感情の発露的なものか,あるいは「掛け声」のようなコールアンドレスポンス的なものだった,と吉本は説いていて,いずれにせよ物事を「記述」する expression (表現) ではなく,内なるものが沸いて出た結果である explosion (表出) だった.そしてそのことは,子供の言語習得を見ても明らかで,乳児の頃は「こういう声を出したらこういう反応をしてもらえるからやってみよう」というような意図的で「表現」的なコミュニケーションは行っておらず,たまたま「マンマー」と発したらミルクがもらえた,というコールアンドレスポンス的な営みを実践しているに過ぎない,というようなお話でした.

この議論には大方同意する一方で,少し疑問もなくはありません.確かに赤ちゃんは生後半年頃からいわゆる「喃語 (babbling)」と呼ばれる「アーアー」やそれこそ「マンマー」的な発声をし始めますが,この段階では何か「意味」を「表現」しているわけではなく,そして興味深いことに,誰か (例えば母親) に「聞かせよう」「メッセージを伝えよう」という意図があって発声しているわけでもない,ということが今のところの発達言語学の共通理解です.つまり,喃語を発するのはコミュニケーションのためではなく,単なる発声練習であり,それがコミュニケーション,ひいては「言語」になっていくのは,周囲の大人がそれに反応し,多くの場合赤ちゃん自身の快感情・欲求の充足につながるような結果を引き起こすためだと考えられます.この点は宮台さんの説明と合致します.

しかしながら,このようないわば「ピュア」なコールアンドレスポンス的状況は,生後9か月頃に突然の終焉を迎えます.いわゆる「9か月革命」と呼ばれる現象で,個人差はありますが,ヒトの子供はだいたい生後9か月くらいで「意図」の存在に気づき,そしてそれを操作しようとするようになると言われています.つまり,まさに「こう言ったらこう反応してくれる」という図式に気付き,それを利用して「こう反応してもらえるようにこう言ってみよう」という行動をとるようになるのです.それは「発声」という行動に限らず生じるもので,「指差し」という行動はその顕著な例です.指を指すことで周囲の大人がその方向を見てくれる.そしてその先にあるもの (例えばお気に入りの玩具) を取ってくれる.だから,手の届かないところに玩具がある場合はその方向を指させばいいのだ,という意図的なコミュニケーションを行うのです.

この発達プロセスは驚異的なもので,多くの点でヒトとそれ以外の生物を隔てる要因になっていると考えられます.これを軸に言語発達の理論を構築しているのがマイケル・トマセロ (Michael Tomasello) という研究者で,2003年に出版された Constructing a language という書籍は言語習得・発達研究に多大な影響を与えました (日本語訳も出ています: 『ことばをつくる
言語習得の認知言語学的アプローチ』
).

そのトマセロが 2003年の書籍の第1章で書いているのですが,実に1歳の言葉を話し始めたばかりの幼児でも,通り過ぎた犬について「ワンワン行っちゃった (Doggie gone)」という発話をする.一見何の変哲もないこの事実が,実はヒトの言語の特性を物語っているのです.つまり,宮台さんのいう「表出」ではなく「表現」に分類される言語行動を1歳児が既に当たり前のように行っている,ということです.このようなただただ事物を「指示」するためだけの発話を行うというのが,実に人間的であり,言語的なのだと思うのです.このことは恐らく上に述べた恣意性という特性とも密接に結びついるように思います.

何が言いたいのかというと,確かに「言語が言語になる前」には「表出」的な行動があって,その延長線上に言語がある,ということは納得がいくし,発達的な事実から言っても恐らく真だろうと思う一方で,「言語はもともと表出的なものだった」というのは,逆に発達的事実から考えても承服しがたい,ということです.もちろんそれは「言語」の定義によるところもあるので,社会学者である宮台さんと言語学者である私との間で当然「言語」の定義が食い違っている可能性も十分に考えられます.しかし私としては,どうしても「恣意性」を言語の定義に入れて考えたくなってしまうのです.

ちなみにこのようなヒトの言語に特徴的な性質を13個 (後に16個になりますが) にまとめ,言語の「設計特徴 (design features)」と名付けた Charles Hockett という著名な言語学者がいます (アカデミア的にはNGですが,参考までに Wikipedia のリンクを貼っておきました).またこういった話題を分かりやすくまとめてくれている TED-ed 動画がありますので,ご紹介しておきます.日本語字幕もついています.なぜか恣意性には全く触れていないのが気になりますが,恣意性以外の4つの性質 (その一つが超越性です) からヒトの言語の特異性を分かりやすく説明してくれています:

かなり長くなってしまいましたが,この辺でなんとなくまとめに入りたいと思います.超越性であれ恣意性であれ,一つ一つの性質を見ていくと他の動物のコミュニケーション様式にも認められるものも少なくないが,それらを全てあわせもつのはヒトの言語だけだ,というのが,ヒトの言語の特異性を語る際の一般的な結論です (ちなみにイルカのコミュニケーションとそれにかかわる能力はかなりヒトに近いものがあります: 例えばこの TEDTalk など参照).しかしながら,前編で見たように,ピダハンの用いる言語には超越性がなさそうに見えるし,ムラブリ語でもあまり重要な性質は果たしていないように思える.こういった事実を考えると,ヒトの言語が言語であるための必須条件,あるいは他の動物のコミュニケーション様式とヒトの言語を隔てる境界線のようなものは,従来想定されているよりももっとずっと連続的で,バッサリと切れるものではないのかもしれない,とも言えるような気がしてきます (そう考えると宮台さんとの想定のズレも解消するかもしれません).

このようにヒトの言語の特異性と,他のコミュニケーション様式との連続性を,「進化」という枠組みで考えるのが「言語の起源・進化」に関する研究で (進化言語学 evolutionary linguistics などとも呼ばれます),近年目覚ましい発展を遂げています.日本でも「共創的コミュニケーションのための言語進化学」という科学研究費の新学術領域研究が立ちあげられ,昨年度終了するまでの数年間で数々の業績を残しています (私も最後の最後でほんの少しだけ関与しました: 共創言語進化学若手の会主催第9回全体研究会 [プログラム]).

パプアニューギニアと言語多様性

その後,再び前編で触れた「ソトのムラブリ」をある種の「仮想敵」とした「規範の維持」の話に言及があった上で,1時間2分半くらいのところから,「言語の多様性」の話題に展開していきます:

宮台さんは,ホモ・サピエンスの個体数がかつて400人くらいまで減り,「全員知り合い」状態になったことがあったにも関わらず,現在ヒトの言語がここまで数多くの言語に分かれているのは一体なぜなのか,という疑問をもっていたようです.しかしそこから「違う言葉を話している人がいる中で我々は同じ言葉を話しているんだ」という「他と差異化することで得られる仲間意識」のようなものこそ重要で,要するに言語は「分かれていることに意味がある」という結論に至ったというお話でした.

前編で予告的に述べましたが,これは「言語とアイデンティティ」の問題として,社会言語学で盛んに研究されてきたテーマです.著名なところでは,アメリカの社会言語学の巨匠 John Gumperz が 1983 年に編纂した Language and social identity という書籍があります.日本にいて日本語だけを使っていると信じがたく思えるかもしれませんが,世界の多くの地域は複数の言語が飛び交う多言語状況にあり,身近に異なる言語を用いる集団が生活しているという状況はごく普通のことだと思われます.そういう環境にいると,当然ながら,「言葉が通じない彼ら」という意識が「差異」の認識を高め,また,そういう人々同士でコミュニケーションを取った際に生じる意思疎通の齟齬 (ミスコミュニケーション) が一層それを増強させることになるでしょう.

その話を受けて,神保さんがパプアニューギニアの津波 (恐らく1998年のものと思われます) に際して,避難所に取材で訪れた時のエピソードを紹介されています. そこでは普段離れて暮らす複数の部族が一堂に会していて,ちょっとしたいざこざですぐに殺し合いが起きてしまい兼ねない一触即発状況にあり,国連の部隊が制圧しなければならないような状態だったとのことです.

これは,パプアニューギニアという地域の特性を考えると,現地に行ったこともない私でも,さもありなん,という気がしてきます.パプアニューギニアは,世界有数の言語密集地域と言われていて「2, 3マイル歩けば別の言語にあたる」といった表現が大袈裟でないようなエリアです.この辺りの話を,生物学者 Mark Pagel が以下の TEDTalk で分かりやすく論じています(Mark Pagel: How language transformed humanity | TED Talk).日本語字幕もついています.

Pagel 曰く,ヒトはたぐいまれな社会学習能力,つまり,他人の行動を見ることでその行動を自分のものにすることができる模倣能力を獲得し,そのことで種全体の繁栄を築いたわけですが,同時に1つ大きな問題に直面しました.それが,自分 (たち) の考え出した「知恵」が,見知らぬ「他人」に見られることで「盗み取られ」てしまう,「視覚的窃盗 (visual theft)」という問題です.これは必然的に対立を生み,資源の奪い合いを生みます.その解決策として,人類は「協調・協力」というオプションを取りました.Pagel はその結果として言語が生まれた,と論じています.協調・協力することによって争いを回避し,互いに互いの知恵を教え合い相互に発展していくことができるが,そのためには高度な内容を伝えあえるコミュニケーションツールが必要だった,というロジックです.

ここでパプアニューギニアの話に戻ります.パプアニューギニアはニューギニア島といくつかの島々からなる国家ですが,ニューギニア島一つをとっても,800近くの言語がひしめき合っている超言語密集地域として知られています.地理的に隔たっているわけではないにもかかわらず,ここまで極端なほどに言語が分化している理由はなぜか.Pagel は,上に述べた「協調・協力」が一部の限られた仲間内だけで行われ,逆にそうでない集団から仲間を「守る」ことを優先した結果だと論じています.言い方を変えると,近接したエリアに「他者」が存在することで,上に述べた視覚的窃盗のリスクが高まるが,「視覚」的に見えない形で仲間内だけで知恵を共有するために,「他者」には通じない言葉を生み出し,それを維持していった,ということです.

まさに「他者との差異化」のために言語自体を異化するということが最も極端な形で現れた,ということになるでしょう.このような議論は Pagel の専売特許というわけではなく,パプアニューギニア関係の研究者の間では一般的な了解事項となっているようです.そのことは,Don Kulick という人類学者による 1997年の書籍 Language shift and cultural reproduction でまとめられています.Google Books のプレビューで読めますので,関連個所を引用し,簡単な日本語訳を添えておきます (Kulick 1997: 2):

It is now generally agreed that New Guinea communities have purposely fostered linguistic diversity because they have seen language as a highly salient marker of group identity (Foley 1986: 9, 27; Laycock 1979, 1982; Sankoff 1976, 1977). In other words, New Guinea villagers have traditionally seized upon the boundary-marking dimension of language, and they have cultivated linguistic differences as a way of "exaggerating" themselves (Boon 1982) in relation to their neighbors and trading partners.

今や了解事項となっているのは,ニューギニアのコミュニティでは意図的に言語を多様化させてきたのであり,その背景には彼らが言語を自集団のアイデンティティを示す極めて分かりやすいマーカーだと見なしてきた,という経緯があるということだ.言い換えれば,ニューギニアの住民たちは,言語の「境界を示す」という機能を昔から有効利用してきたということであり,「言語の違い」というものを,近接する隣人であり交易の相手である他者とは異なった,自分たちの独自性を「誇張」するための道具と捉えその性質を強化させてきたのである.(吉川訳)

Kulick, D. 1997. Language shift and cultural reproduction: Socialization, self and syncretism in a Papua New Guinean village. Cambridge: Cambridge University Press.

文明と感染症 (割愛)

(前編に「後編の目次」として入れてしまいましたが,記事が思ったより長大になりそうなのと,言語との関連性があまり認められない話題であるため,別の機会に書くことにしようと思います)

言語と身体

トークもいよいよ終盤にさしかかり,「ムラブリ研究の次の展開は何かあるか」という神保さんの質問に答える形で,1時間12分あたりから伊藤さんが「言語と身体」の関係性について語り始めます:

伊藤さんは武術の世界にも足を踏み入れていて,その中で言語と身体の関係について考えているようです.それを体現するのが,トーク内で発された「言葉は体なんだ」という伊藤さんの言語観で,既に定員に達してしまったようですが,実践として武術と言語 (学) を融合させたワークショップを5月末に企画されていらっしゃいます.

伊藤さんの意図しているものとは異なるかもしれませんが,実はこの「身体」あるいは「身体性」や「身体化 (embodiment)」という概念は言語学の一部では非常に馴染みのあるもので,言語の身体的な側面についても長らく研究が行われてきています.有名なところでは,比喩 (メタファー) を単なる修辞の技法ではなく「あるモノを別のモノを通して理解する」というヒトの基本的な理解の仕組みであると捉え直した,認知言語学者ジョージ・レイコフ (George Lakoff) と哲学者マーク・ジョンソン (Mark Johnson) による 1980年に出版された Metaphors we live by (日本語訳:『メタファに満ちた日常世界』) という書籍が挙げられます.

例えば日本語でも「気分は上々だ」というように「幸福である」というポジティブな精神状態には「上」方向を表す表現を用い,逆に「落ち込んでいる」のようにネガティブな精神状態は「下」方向を表す表現を用います.同じことは英語にも言えて,その背景には,うれしい時には体が上向きになり,時には飛び跳ねたりするが,悲しい時には俯いたり,床に臥せたりしてしまうという身体的な感覚・経験が存在する,といったことが議論されています.

これに関連して紹介したいのですが,「心の哲学 (philosophy of mind)」と呼ばれる哲学の分野 (より広く言えば認知科学 cognitive science) で議論されている,「拡張された認知 (extended cognition)」という概念があります.従来「こころ」あるいは「認知」というものは,脳という器官が何らかの形で実現させている機能であり,「心と体は別である」というデカルト的な心身二元論が自明視されていたのに対して,「心と体は別ではない」,それどころか,心・認知は「体」という境界線を越えて広がっているものなのだ,という議論を提示するものです.より具体的には,こころ/認知を,extended「拡張された」,embodied「身体化された」,embedded 「環境に埋め込まれた」,そして enacted 「行動に基づく」ものだ,と捉える発想で,これら 4 つの E から始まる概念を総称して「4E 認知 (4E cognition)」などと呼ばれています.4E認知について日本語で読める概説のようなものはないと思いますが,英語ではハンドブックが編纂されています: Oxford Handbook of 4E Cognition - Oxford Handbooks

また手前みそですが,私もこの 4E認知の考え方を言語学にも取り入れて,言語学内で想定されている「認知」の考え方を刷新し,より言語の現実に即したモデル・理論を構築するべきだ,という論考を書いています.ひつじ書房から 2021年に出版された,『実験認知言語学の深化』(篠原和子・宇野良子編) という書籍の最後の方に収録されている「認知言語学の社会的転回に向けて:「拡張された認知」が切り開く認知言語学の新たな可能性」という論考です.

エッセンスだけご紹介します.これまでの言語学では,上に紹介したような「身体性」に関する議論はあったものの,結局言語は「頭の中にある知識」として,つまり「~という単語や文法的なパターンを知っている」ということを前提として議論されてきたが,実際は言語学が想定しているほど人はことばを「知らずに」使っているのではないか.例えば会話の相手が直前に使った表現や,目の前にあるもの,ふとした動作,PCやスマートフォンといった身体や身体の「外」にある多様な環境や道具を駆使して,知識を補いながらその場その場に適応するような形で言語活動を行っている,と考えた方が適切なのではないか.そう考えると,これまで言語学が想定してきた「認知観」「言語観」では言語のリアリティを捉えきれないのではないか,という議論になっています.恐らく伊藤さんの考えている言語観にも通じるものがあるのではないかと思いますので,是非お話を聞いてみたいものです.

手話は言語である

トークはこれで終わりなのですが,最後の最後,1時間14分過ぎ辺りで,「関係するか分からないので余計なことかもしれないが」という前置き付きで,神保さんがこんなことを語り始めます:

曰く,以前神保さんが行かれた取材先で耳の聞こえない兄と健常者の妹さん,という構成の兄妹がいらっしゃって,妹さんは兄の手話を真似ることで手話を身に付け,まだ言葉をしゃべることができないにもかかわらず手話では多様なことを表現できる,という状態にあったとのことで,ここに神保さんは「身体の優位性」とでも言うべき性質を見いだしているようでした.それは「ことばなんてそんなもの」という発言に見て取れるように思います.

この妹さんは,手話の方を優先的に,より早く身に付けたことで,手話では表現できるが音声言語では表現できない,という事柄が多く,「音声言語では何というのか?」と手話で聞く,というようなことも珍しくなかったというお話で,宮台さんはこの話を受けて進化的には「言葉は身振りだった」ということだろう,という発言もされています.ちなみにこの辺は「言語のジェスチャー起源説」として一つの仮説となっていて,盛んに議論が行われているところでもあります.有名どころとしては Michael Corballis という心理学者による議論で,2002年に出版された From Hand to Mouth: The Origins of Language (日本語訳: 『言葉は身振りから進化した: 進化心理学が探る言語の起源』) という書籍に論考がまとめられています.

さて,このお話で少しひっかかるのは,話の流れから言って,「身体」に基づく表現である「手話」が,あたかも「言語」とは異なるものであるかのように捉えられていないか,ということです.これは私の考えすぎなのかもしれませんが,神保さんの「ことばなんてそんなもの」という発言がやはりどうしても気になってしまいます.

言語学では既に一般の了解事項となっていますが,音声ではなく手指動作と表情を用いるという違いがあるだけで,手話もれっきとした言語の一形態です.またよく誤解されますが,日本で用いられている日本手話と,例えばアメリカで用いられているアメリカ手話 (ASL) は,日本語と英語が異なるのと同じで全く別の「言語」です (音声言語とは歴史が異なるので,アメリカ手話とイギリス手話 [BSL] も全く別の言語です).なので,確かに発達的に舌などの構音器官よりも手腕の発達の方が早く,それに連動して手話の方が先に身に付いた,というのは興味深い事実ですが,それは,言ってみれば,英語と日本語のバイリンガル環境に育った子供が,英語を日本語より先に身に付けた,ということと何ら変わりはないということです.一般化して言えば,二つの異なる言語を身に付けられる環境にあった時に,様々な環境要因によって,たまたまそのどちらか一方が先に身に付いただけ,ということです.

日本でもようやく「手話言語法」によって政治的に「手話は言語である」と「認められ」て,世間一般の認識も変わりつつあるように思いますが,未だに手話はジェスチャーと同じで言語ではないどこか「劣った」ものであるかのような認識が根強いように感じます.神保さんがそう考えていらっしゃると言いたいわけではないのですが,用いている表現からそのような誤解を与えかねないと思い,念のため,改めて「手話は言語である」ということを強調しておきたいと思った次第です.

終わりに

ということで,2回に渡ってYouTube 動画「伊藤雄馬×宮台真司×神保哲生【5金スペシャル映画特集Part1】「森のムラブリ」に見る人間のモラルの根源と他者を恐れる習性」に対する,独断と偏見に満ちた補足・解説・コメントを垂れ流して参りました.最後までご覧いただきありがとうございます.「長くなるから前後編に分けよう」と思ったものの,分けどころを恐らく間違えて,後編がとんでもない分量になっているような気がしますが,それもまた一興ということで,ご容赦いただければと思います.

なお,念のため申し上げておくと,今回は言語学者として言語に特に関係する部分をピックアップしましたが,そうではない部分でも興味深い話題は多数ありましたので,取り上げなかった部分を吉川が「面白くない」と思っているわけでは決してありません.むしろ「この話是非したいなぁ」と思いながら泣く泣くカットした内容もあります (その一つが,宮台さんの語られていた「法の奴隷」のお話です).機会があれば別の記事として書き下していきたいと思います.

そしてなにより,『森のムラブリ』,存在を知ったのがこの動画を観た時で,東京での公開が終了してしまっていたため,まだ見られていません.早く見たいよ,『森のムラブリ』

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