見出し画像

早稲田と猫      真辺 将之

刊行後、書店やSNSで話題となった『猫が歩いた近現代』! 著者の真辺将之先生に、早稲田大学にまつわる猫のお話を寄稿していただきました。note読者の皆様へ特別公開します。是非、お愉しみください。

『猫が歩いた近現代』の表紙を飾る、凛々しい顔をした猫。早稲田大学の正門付近で見かける猫だが、「寧々」という名前であることを私は最近まで知らなかった。通りすがる多くの学生から愛されている猫であるが、私同様に、名前を知らずに可愛がっている学生も多いことだろう。他にも現在、早稲田キャンパスには数匹の猫が住んでおり、早稲田大学の公認サークルである「早稲田大学地域猫の会」(略称「わせねこ」)の方々が面倒を見ている。


「早稲田大学地域猫の会」は大学の地域猫サークルとしては日本で最も歴史が古く、1999年に設立された。私自身は、サークル運営に関与したことはないが、過去の教え子のなかにはこのサークルに所属していた学生が何人もおり、時折様子を聞いたりもしてきた。その一人から聞いた話では、寧々と仲良しの「茶々」は、2018年8月に病気になり、わせねこのメンバーが交代で病院に連れて行き、毎日点滴注射を打った。医療費をかけること40万円以上、学生団体ということもあってこれ以上治療を続けるならばいつかはお金の限界が来て、治療を打ち切ることになるかもしれないと悲しい覚悟の必要を感じはじめた頃に、ある日突然ケロリと元気になったのだという。茶々が今日も寧々と戯れることができているのも、ここまで手厚く猫の面倒を見てくれているわせねこの皆さんのおかげであり、頭が下がるばかりである。


こうした誇らしい地域猫サークルを擁する早稲田大学であるが、実はその猫との関わりは、大学の創設者・大隈重信にまで遡る……と言えればいいのだが、大隈はむしろ犬好きとして知られ、早稲田大学大学史資料センターには、犬とともに写る重信の妻・綾子の明治後期の写真も残されている。この犬は大切に飼育され、亡くなった際には誕生してほどない動物霊園に手厚く葬られた。しかし実は大隈晩年の大正7年(1918)の『東京朝日新聞』には、大隈が「半波斯(ペルシャ)種」の猫を飼っていたらしいという記事も掲載されている。当時大隈は数え81歳の老人、最晩年に至り猫の魅力に気付いたもの……と信じたいが、この記事が事実なのか、また事実だとするなら大隈やその家族がその猫にどんな感情を抱いていたのか、を示す史料にはまだたどりつけていない。

①大熊綾子

犬とともに写る重信の妻・綾子(早稲田大学大学史資料センター所蔵)


しかし大隈の周囲には猫好きが多くいた。たとえば、大隈が幕末期に仕えていた佐賀藩主・鍋島直大(なべしまなおひろ)の家では猫を飼っており、その姫君が子猫を他家に譲った際には、二挺の籠を用意して、一つには子猫と鰹節を、もう一つには子猫の好きな鞠やおもちゃ、食べ物などを載せ、まるでお輿入れのような形で猫を運んだ。それを見た庶民たちは、まさか猫とは思わず、鍋島家のお嫁入りの儀が行われたものと勘違いしたという。鍋島直大は、のちに明治14年の政変で政府を追放されて金銭的苦境に陥っている大隈重信を強く支援したが、できればその時、金銭だけでなく猫も大隈に贈り、追放のショックを和らげかつ猫の魅力を伝えてあげてほしかった(笑)。


また大隈が若い頃から可愛がり、早稲田の大隈邸にもたびたび出入りした政治家の尾崎行雄も「頻りに猫を可愛がつて、着物なんぞはいつも猫の毛だらけ」だったと明治期の新聞で報じられている。尾崎が猫の毛だらけの服を来て大隈と面会し、大隈がそれを見て顔をしかめている姿などを想像すると面白い。なお、大正政変時、尾崎によって衆議院で激しく糾弾された桂太郎(第一次大隈内閣で陸軍大臣も務めた)も一時期シャム猫を飼っており、大変なかわいがりようで、魚類は鱗をちゃんと取り、小骨も自ら毛抜きで一本一本取り除いてから与え、毎日寝食をともにするほどの寵愛ぶりであったという。尾崎と桂も、政治では対立したが、もし猫の魅力について語り合ったならば、きっと仲良くなれたのではないか。なお桂の猫は、寵愛されて栄養豊富、近所の犬にも喧嘩で勝つぐらいの大猫になったまではよかったものの、甘やかしすぎたせいか乱暴狼藉が目に余るようになり、秘蔵の狩野探幽(かのうたんゆう)の絵画や高価な大礼服まで引き裂くようになり、やむなく知人が引き取ったという。


なお明治の政治家で一番の猫好きといえば、青木周蔵を挙げねばなるまい。桂の飼っていたシャム猫も子猫の時に青木周蔵から譲られたものであった。青木は人と面会する時にも猫を膝の上にのせて絶えず撫でながら話をしたという。何匹かの愛猫のうちでも、特に「ピータ」という名の猫は、外交官であった主人に付き従って太平洋を横断すること6回にものぼり、東京、ロンドン、パリ、ワシントンDCの各都市に住んだことが国際派の猫として、当時から話題になっている。


話が早稲田から外れすぎたが、他に早稲田大学関係者では、大隈の側近で早稲田大学図書館長を務めた市島謙吉(いちしまけんきち)が猫を飼っており、猫と一緒に写っている写真が残っている。わざわざ猫と写真を撮るくらいであるから、相当な猫好きだったのだろう。市島は膨大な量の日記や回想等の史料を残していて私も読み進めているのだが、いまだ猫に関する記述には出会えていない。他には文学部の教授で哲学科の基礎を作った金子筑水も「チョイチョイ」という名の猫を飼っていた。しかし拙著でも触れたコッホの提唱した猫飼育奨励の後に猫泥棒が横行すると、その被害にあったか行方不明になってしまった。他にも猫好きの教授は数多く、戦後では教育学部教授だった英文学者の中尾清明は自宅で40匹以上にのぼる猫を飼っていたし、法学部教授だった杉山晴康も猫好きで、雑誌に猫をめぐる法律講座の記事を連載していた。現在私が教鞭を執る文学学術院(文学部・文化構想学部)にも、猫好きの教員は多いようで、Zoom会議の際に猫のアイコンを使っている教員を複数見かける。ある名誉教授は在職中、猫に出会った時に与えるための煮干しを常に持ち歩いていると噂だったし、またTwitterで猫のアイコンを使ったり、猫に関する投稿をしている教員もいるようだ。ちなみに私も、猫アカウントを所持しているので(@nekomanabe)ご興味のある方はぜひフォローいただきたい。

②市島謙吉

猫とともに写る市島謙吉 / 市島春城『春城八十年の覚書』(早稲田大学図書館、1960年)より


早稲田という土地との絡みでいうと、夏目漱石の旧居跡にある「猫の墓」に触れないわけにはいくまい。『吾輩は猫である』のモデル猫の墓であるが、小説自体は本郷区駒込千駄木町(現・文京区向丘二丁目)に住んでいた頃に書かれたため舞台は早稲田ではない。なお、この猫は引っ越しの際に門下生の鈴木三重吉(みえきち)が紙屑籠に猫を入れて運んだが、その最中に鈴木は着物に猫のおしっこをひっかけられてブウブウ文句を言っていたという。猫は早稲田邸で亡くなり、書斎裏の桜の樹の下に埋めたが、その後猫の13回忌のときに、この猫塚を建てて、犬や文鳥とあわせて猫の骨も遷したのだという。ただし夏目伸六『猫の墓』によれば、その後、猫の骨は雑司が谷の墓地にさらに遷してしまい、現在この地には埋まっていないという。さらに、第二次大戦の戦災によってこの猫塚は焼け崩れてしまった。戦後、この地に都営住宅が建設されることになり、墓石はバラバラのまま区役所小使室の隅に放り込まれていた。しかし1953年になって、ようやく新宿区教育委員会が猫の墓を文化財に指定、元の場所に近いところへ石をセメントで継ぎ合わせて復旧した。それでも都営住宅がすぐそばにあって敷地が狭く、訪問してがっかりする人の多いいわゆる「がっかり名所」であったようである。近年になり漱石山房記念館がオープンするなど周辺が整備され、ようやく早稲田の名所として再び日の目を見ることになった。


なお、早稲田大学には本年(2021年)秋に、村上春樹国際文学館がオープンする予定である。早稲田大学出身の作家である村上春樹もまた、猫好きとして有名であり、作家として売れる前には千駄ヶ谷に愛猫の名前にちなむジャズバー「ピーターキャット」を経営しており、店内は猫グッズに溢れていたという。作品のなかにもさまざまに猫が出てくるが、かつて期間限定公式サイトが開設されていた際には、読者からの人生の秘訣を問う質問に対し、「知らん振り」「照れ隠し」「開き直り」の三つだと述べたうえで、「みんなうちの猫たちから学びました。だいたいこれで人生をしのいでいます。にゃー。」と答えたほどの、猫好きである(新潮社期間限定サイト「村上さんのところ」)。国際文学館が漱石の猫の墓とならぶ猫文学の名所となってほしいと願う早稲田人は私だけではあるまい。


以上のような有名人だけでなく、これまで早稲田では学生と猫、教授と猫、職員と猫、そして街の住民と猫の間に、数え切れないほどたくさんの物語が繰り広げられてきたに違いない。私が大学生の時、大隈通りにあった食事処「静」に複数の猫がいた。店の入り口扉の真ん中が猫の爪とぎのために大きく削れていたことも目に焼き付いている。猫がいるなんて不潔だという友人もいたが、私はその猫が見たくてしばしばその店に通った。さらに、私が初めて猫を飼ったのも大学院生時代、この早稲田の地に住んでいた時であった。ほかにも、文学部横のうどん屋「ごんべえ」では白猫の「シロ」が20年近く店を守っていた。「ごんべえ」のある場所は、かつて新しい店が入っては潰れを繰り返す場所だったのだが、シロが福猫の役割を果たしたのか、ごんべえは長らく繁盛して今日に至っている。シロは晩年両目が見えなくなり、店の隅で寝ていることが多かったと記憶するが、久しぶりに母校を訪問して店に立ち寄り、「シロ、まだ生きていたんだ」と驚く卒業生も多かった。20年近くにわたって店を見守り、学生に愛された猫の姿は、まさしく早稲田の街の歴史に残る存在であった。他にも早稲田古書店街の古本屋でも猫を見かけることがあった。歴史やメディア関係の良書が多く、私もよく覗きにいく「古書現世」にも10年ほど前までキジトラの「ノラ」という名の猫がいて客に愛されていた。また最近まで「コト」という名の猫もいたが、昨年、事故で亡くなったそうである。私はシャイなので店主の方と個人的に話したことはなく、普段から古書現世のTwitterを覗いて、たまに出てくる猫の記述を楽しんでいたものだが、コトが亡くなったことを知った時は大変にショックだった。


しかし、その早稲田の街と猫の物語も、終わりの日が少しずつ近づきつつあるのかもしれない。冒頭に早稲田大学地域猫の会のことを書いたが、地域猫活動の目標は、猫を避妊・去勢したうえで一代限りで天寿を全うさせ、最終的には野良猫がいなくなることを目指すものである。何年か前に、わせねこに入っている学生が「大学に住む猫も残り少なくなりました。そのうち一匹もいなくなるかもしれません」と少し寂しそうに話していたことを覚えている。今はその時に比べてまた猫の数が増えたようだが、果たしてそれを喜んでいいのかは微妙であろう。開校当初は田んぼに囲まれ、高度成長頃まではまだ木造戸建ての多かった早稲田も、いつの間にかアスファルトとマンションばかりの街になってしまい、猫が生活するには過酷な環境になってきた。前述したごんべえの「シロ」も、たまに外を歩いているのを目にしたが、見かけるたびに交通事故に遭わないかと心配な気持ちになった。そして古書現世の「コト」は事故で亡くなった。猫が自由気ままに街中を駆け回れた時代は、もう戻ってこない。早稲田にもいずれは猫がいなくなる日が来るのかもしれない。


むろんそれは悪いことばかりではない。かつて、猫が外に自由に出入りしていたときには、猫の最期を看取ることのできる飼い主は少なかった。猫の民俗学者として著名な永野忠一は、かつて沢山の猫を飼ったが、死体を見せた猫の記憶はほとんどなく、昨日まで元気だった猫が今日から姿を見せなくなるという形で、突然別れが来るのがほとんどであり、その時の心地のやり切れなさに堪えられなくなったことから、のちには猫を全く飼わなくなったという(『猫の民俗誌』)。しかし室内飼育が主流になりつつある現在、我々は最期の瞬間まで猫と一緒にいて、看取ることができる。病み衰えて死んでいく猫を看取るのはもちろん悲しいことであるが、しかし、どのような最期を迎えたかもわからない突然の別れと、最期のその瞬間まで一緒にいられるのと、どちらかを選べといわれたら、多くの飼い主は後者を選ぶであろう。猫が自由に街中を歩けなくなったとしても、猫と人間の絆はなくなりはしないし、むしろ強くなっていくのである。早稲田という街と猫の物語は終わったとしても、人間と猫の物語は決して終わりはしない。これからもいくつもの物語が紡がれていくはずである。
                   真辺 将之(まなべ まさゆき)


早稲田大学地域猫の会(わせねこ)
「人と猫がともに生きる環境&社会」を作っていくことを目的とした、早稲田大学公認のボランティアサークルです。
早稲田大学早稲田キャンパスと戸山キャンパス内で暮らす猫を「地域猫」として管理・世話しています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?